爆雷と護送船団 (第一次世界大戦)
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「対潜戦」の記事における「爆雷と護送船団 (第一次世界大戦)」の解説
潜水艦が本格的に実戦投入されたのは第一次世界大戦からであり、1914年の大戦の勃発までに300隻近い潜水艦が任務に就いていた。これに対抗するため、この時期に建造された艦艇は、魚雷に対する防御として、装甲帯をつけていた。 大戦勃発から1ヶ月後の9月5日、Uボートの1隻であるU21の雷撃によりイギリス海軍の偵察巡洋艦「パスファインダー」が撃沈されたのを端緒として、その17日後の9月22日にはU9が3隻のクレッシー級装甲巡洋艦を立て続けに撃沈するなど、潜水艦の脅威は猖獗を極めた。 また1915年からは通商破壊戦、1917年からはさらに拡大した無制限潜水艦作戦が開始された。島国であるイギリス帝国は資源・食料の多くを海外の植民地からの輸入に頼っていたことから、これに対しイギリス海軍も全力で対抗し、大西洋の戦いが幕を開けた。 この戦いを通じて、現代に通じる対潜戦の技術の多くが実用化されていくことになった。水上艦がUボートに対抗する手段としては、当初は浮上時に体当たりか砲撃を加えるのが普通であり、潜航中の敵艦を攻撃できる手段としては原始的な曳航式爆破具が用いられていた程度であったが、1914年11月より投射式の爆雷の開発が開始され、1915年に実用化された。またハイドロフォン(のちのパッシブ・ソナー)の実用化も進められ、1915年には地上局が設置され、1916年には艦載化が開始された。アクティブ式のASDIC(のちのアクティブ・ソナー)の開発も進められたが、その実用化は1920年と、大戦には間に合わなかった。 さらに機雷戦も応用され、1918年には、英米共同で73,000個以上の機雷を敷設して北海機雷堰を構築し、13隻のUボートを撃沈、休戦まで潜水艦を封じ込めた。また大戦末期には、地上基地からの対潜哨戒機も実用化された。 また作戦術・戦術の研究も進められた。1917年より開始された手法の一つがQシップと呼ばれる武装商船であった。このQシップを、Uボートの行動が確認された海域へ向け単独航行させる。当時、Uボートに搭載されていた魚雷は貴重品であり、簡単に使える物ではなかったため、護衛無しの単独航行中の商船の場合は、浮上して砲撃で攻撃していた。Qシップはこれを利用し、無防備な商船を装って、安心したUボートが攻撃しようと浮上した所を、突然攻撃してこれを撃沈するものであったが、無制限潜水艦作戦の開始とともに有効性は低下した。之字運動やダズル迷彩なども自衛手段として普及した。最も効果が有った対潜戦術は、やはり1917年より着手された護送船団方式であった。船を集団行動させて護衛艦を付ければ、単独行動時よりも輸送効率は悪くなるが、一隻当たりの被発見率を低下させる事が出来る。この方式により、それまで一回の航行に付き10%程度だった商船の被撃沈率は1%程度にまで低下した。 最終的に連合軍は勝利をおさめたものの、約5,300隻、1,300万トンに及ぶ商船を失い、世界は「灰色の狼」と呼ばれたUボートの脅威を知ることとなった。
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