湖南追撃戦
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11月20日、唐軍は長沙に第4集団軍弁事処(12月20日、湖南臨時軍事委員会と改称)を設置、李品仙、何鍵、劉興が常務委員に就任。21日、李、何、劉は湖北省政府主席・周斕と会議を開き、部隊の立て直しを図った。その一方で、李品仙と廖磊は広西省出身、何鍵は白崇禧と同期(保定3期)であったため、桂軍との衝突を望んでおらず、葉琪(中国語版)を長沙に2度派遣した。12月29日、葉琪は2度目の派遣で以下の和解策を提示した。 その1:李品仙らは李宗仁、白崇禧と軍事上連携を行い、命令を受ける。 その2:李品仙らは広東を征伐し黄紹竑を助け、あるいは1、2個軍を武漢に派遣する。 その3:党や国の一切の主張に対しては、李宗仁、白崇禧に同調する。 しかし、桂軍や程潜は武力解決を決心しており、白崇禧を総指揮とする西征軍は1928年1月1日をもって湖南省への進軍を開始した。1月15日、西征軍は総攻撃を開始。東路と西路に分け、以下のように展開した。 西征軍東路:第7軍と第19軍が主力となり平江で第8軍の右翼を叩き、第6軍、13軍、第44軍が岳州(現湖南省岳陽市付近)へ進軍。第6軍 - 軍長:程潜(1月18日より参加) 第7軍 - 軍長:夏威 第13軍 - 軍長:陳嘉祐 第18軍 - 軍長:胡宗鋒 第44軍 - 軍長:葉開鑫(1月投降) 西路:第30軍、第2軍、第43軍は津市、澧県、安郷を攻め、第3軍、第9軍が醴陵、瀏陽、株洲に進軍し退路を絶つ。第2軍 - 軍長:魯滌平、副軍長:張輝瓚第4師 - 師長:王捷俊 第6師 - 師長:戴岳 第19師(2月22日、第23師に改称) - 師長:朱耀華 第43軍 - 軍長:李燊 第30軍 - 軍長:魏益三第1師(2月25日、第103師に再編) 第2師(2月25日、第104師に再編) 第3師(2月25日、第105師に再編) 第3軍 - 軍長:王均 第9軍 - 軍長:金漢鼎 武漢政府側 第35軍 - 軍長:何鍵、津市、澧県、安郷を防衛 第17軍 - 軍長:周斕(11月21日新編~)、予備隊 第8軍 - 軍長:李品仙、平江、瀏陽を防衛 各独立師団:予備隊 第18軍 - 軍長:葉琪(中国語版)第1師 - 師長:廖磊 第36軍 - 軍長:劉興 この時に、下野していた蒋介石は11月22日に帰国しており、後ろ盾を得た李品仙、何鍵、劉興、周斕は1月5日、隷下部隊将兵に「擁蒋反白」の通電を発した。1月9日、唐生智と連合し、勢力を増強しつつある新広西派への打撃を準備していた。 15日、葉開鑫の第44軍は海軍第2艦隊と連携して岳州の長江のほとりにある城陵磯(中国語版)を攻撃。程潜の第6軍も17日に岳州を攻略した。しかし、葉開鑫はその過程で唐生智と蒋介石に投降し、21日、蒋介石より桂軍打倒の密電を受ける。第44軍は第6軍の右翼を、李品仙の第8軍が背後を急襲した。第6軍は重大な打撃を受け、壊乱状態に陥った。白崇禧は緊急電を武漢政府に発し、二つの救援策を提出し、その内容は「第1は全軍を呼び戻し葉開鑫の部隊を攻撃し、武漢を防衛する。第2は葉開鑫にはかまわず、全軍で正面の敵軍防衛線を突破し、唐生智の総司令部のある湖南省長沙を攻略する。」というものだった。 当時武漢にいた南京政府の李烈鈞、譚延闓、何応鈞ら高官は皆第一案を取るよう主張したが、桂軍の首領李宗仁は第二案の採用を堅持した。これにより、白崇禧は自ら軍を率いて南下し、1月25日に長沙を占領。35軍と18軍は常徳に、第36軍と8軍は衡陽に逃げ込んだ。7日に衡山、8日に衡陽などの湖南省の重要拠点を連破した。李品仙、劉興、周斕は連名で白崇禧に電報で停戦を求めた。しかし、桂軍は更に進軍を続け、宝慶を占領、三軍は新化、漵浦まで追い詰められた。唐生智の部隊は再起不能となり大敗した。3月3日、李品仙は白崇禧と、葉琪は程潜と会見して南京政府擁護を表明し、南京政府による改編を受け入れることを願った。4日、李品仙、葉琪、何鍵は電報で北伐への参加を表明。 寧漢戦争は新広西派を主力とする南京政府の勝利で終わった。
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