湖南省での活動と晩年
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1931年(民国20年)、中国公学代理校長に就任し、4月、上海市教育局教育討論会委員長となる。同年夏には済南に移り、山東斉魯大学校長となった。翌1932年(民国21年)9月、湖南省政府教育庁庁長に転じ、以後1943年(民国32年)3月まで10年以上にわたりこの地位に在って、省内の教育制度整備に尽力し、成果も残した。その後、重慶に移って国立中央大学教育長となる。1944年(民国33年)、『教育思想』という著書を商務印書館から刊行した。 同年3月、朱経農は教育部政務次長に任命され、翌1945年(民国34年)5月、国民党第6期中央監察委員となっている。日中戦争(抗日戦争)終結後、政務次長を辞して、王雲五の後任として商務印書館総経理となり、さらに光華大学校長も兼ねた。1946年(民国35年)11月と1948年(民国37年)3月の国民大会にも代表に選出されている。1948年11月、国際連合教育科学文化機関に中国首席代表として出席した。国共内戦後はアメリカに渡り、コネチカット州のハートフォード神学校で教官となっている。 1951年3月9日、アメリカで心臓病により死去。満63歳没。
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