海外興行・翻訳劇
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1899年(明治32年)、渡米して現地で興行を行う。このとき、妻・貞奴が舞台に立つことになった。シカゴやボストン、サンフランシスコなどで甚五郎や道成寺などを披露し、東洋の珍しい演劇として話題を集めた。ニューヨークでは、アルフォンス・ドーデ原作の『サッフォー』を日本版に翻案した芝居も演じた。これは、近くの劇場でイギリスの女優オルガ・ネザソール(Olga Nethersole)が『サッフォー』(en)を演じたところ、猥褻を理由にニューヨーク悪徳弾圧協会やニューヨーク母親クラブなどから非難を受け、逮捕されるという事件が起こったことを受け、この騒ぎを利用して話題を集めるために音二郎が急遽一晩で作り上げたもの(?)。ネザソール版と逆に純愛話に仕立てたところ、ネザソールを弾圧した人々から賞賛を受け、それまで3日かかったのと同じ数のチケットが1日で売れた。貞奴は貴婦人協会に招かれ、女優クラブの名誉会員に選ばれた。第一回海外巡業については、井上理恵著『川上音二郎と貞奴 2 世界を巡演する』(社会評論社2015年)に詳しい。 1900年(明治33年)には、日本通で知られるロンドンのアーサー・ディオシーの歓迎を受け、彼の友人の舞踏家ロイ・フラーや女優サラ・ベルナールに紹介され、フラーの支援を受けて パリ万博で公演し、米国興行に続いて人気を博した。翌年、いったん帰国したあと、再びヨーロッパに渡り、1902年に帰国した。欧米巡業中、1902年(明治35年)11月1日に大日本帝国の俳優として初めて勲章を授与される。フランス大統領エミール・ルーベより官邸のエリゼ宮殿にて、オフシェー・ド・アカデミー三等勲章(現・芸術文化勲章)を授与。オフシェー叙勲、外国人に贈られる最高章を授章した。 1903年、日本で初めてのセリフ劇『オセロ』を日本バージョンで上演する。以後、『ハムレット』『ヴェニスの商人』などを積極的に上演し、歌舞音曲のない演劇を日本に定着させようとした。川上は「新派の祖」ではなく、「日本の近代演劇の祖」という存在になる。(井上著『川上音二郎と貞奴3 ストレートプレイ登場する』(2018年)に詳しい) 1908年(明治41年)興行師として成功し、現在の大阪市中央区北浜四丁目に洋風の劇場・帝国座を開場する。同時に帝国女優養成所を創設。また、1910年(明治43年)には博多区千代に洋風劇場の「博多座」(初代)を建設している(詳細不明)。 1911年(明治44年)、急性腹膜炎により11月4日から昏睡状態となり、11月11日に貞奴の願いにより運ばれた帝国座の舞台上で死去。享年48。「汽車が眺められるところに」という音二郎の遺言により、当時博多駅が近くにあった承天寺に葬られる。
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