河道・治水・水質改善
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 23:42 UTC 版)
亀田川は元々暴れ川であり、約1000年前以前は、主として山沿いに神山、鍛冶の神社方向に向かい、途中小島川、陣川、七五郎沢川を併せて、鮫川に合流していた。時々川筋は変わっていたが、ほぼこの方向に一定と推定されている。 約1000年前からは川筋を変え、梁川交通公園の裏手付近より亀田村に流れ込み、亀田八幡宮の森を通って北洋銀行万代町支店付近で函館港(亀田湊)に注いでいた。 なお、川筋を函館港(亀田湊)に変えた後も出水時は現在の川筋だけでなく、神山稲荷神社の下と二手に分かれて流れていた。 1702年(元禄15年)~1703年(元禄16年)に大洪水が起き、その時の土砂で河口付近が埋まり交易船が着けなくなった(亀田湊の衰退と箱館湊の発展、函館港を参照)。『福山秘府』には元禄15年7月29日と元禄16年6月4日から10日(いずれも旧暦)に亀田村にて洪水があったと記録されている。 水害対策と函館への生活用水確保の目的で1859年(安政6年)、青森県下北郡川内村(現在のむつ市)の願乗寺の僧侶・堀川乗経が中心となり白鳥橋辺りから横堀(現・銀座通り)へ分流させた(その跡は高砂通り)。元の亀田川を古亀田川、新しい亀田川を新亀田川としたが、もっぱら堀川や願乗寺川と呼ばれた。この分流は小舟による水運にも活用され、湿地も乾燥したことから両岸が急速に発展した。 しかし、年々土砂を運び港内を埋め、1877年(明治10年)ごろからコレラなど伝染病が出始めたので、西洋の近代的水道を作ることもあり、1883年(明治16年)に内務省に雇われていたオランダの土木技師ローウェンホルスト・ムルデル(Anthonie Thomas Lubertus Rouwenhorst Mulder)の提案と設計により、1888年(明治21年)、大森浜への転注を行い、亀田川掘割、のちの新川と呼んだ。なお、1889年(明治22年)には願乗寺川の埋め立ても完了している。 1965年(昭和40年)の洪水被害をきっかけとして、1984年(昭和59年)には洪水や下流の水質汚濁問題の解決で、北海道の「亀田川総合開発事業」によって函館市の水道専用ダムだった中野ダムをかさ上げ工事を行い、補助治水ダム化した重力式コンクリートダム「新中野ダム」が完成した。
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