河道閉塞による水不足と利水問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 06:52 UTC 版)
「1888年の磐梯山噴火」の記事における「河道閉塞による水不足と利水問題」の解説
小磐梯山の崩壊に伴う山体崩壊で発生した岩屑なだれが磐梯山の北から北東山麓を埋め尽くし、長瀬川やその支流を河道閉塞して天然ダムが形成された事実が判明すると、まず天然ダムの決壊に伴って長瀬川下流域に大規模な土石流が流れ下ることが危惧された。そこで内務省は噴火直後の7月20日、天然ダム決壊の可能性の有無と、決壊に備えて天然ダムの水を排水するための導水路を設けられるかどうかを判断するために古市公威を現地に派遣した。 古市の現地調査の結果、当面決壊の恐れはないとされた。この判断は比較的容易なものであったと考えられている。後述のように長瀬川上流部には莫大な量の土砂が堆積しており、当時の記録からも素人目で見てもすぐに決壊するとは思われなかったからである。 噴火直後、水の供給源である長瀬川水系の上流部が複数の天然ダムで塞がれ、その上、既設の用水路が泥流、土石流で使い物にならなくなってしまったので、下流域は深刻な水不足に悩まされることになった。そこで用水路の暫定復旧工事を行い、更には猪苗代湖の水門からの流出量を減少させて水位を上げ、その上で猪苗代湖からの揚水で水を賄うとともに、各地に井戸を掘って急場を凌ぐことになった。 内務省は噴火翌月の9月には測量の専門家を派遣し、測量結果をもとに水不足に悩まされていた長瀬川下流域の利水対策、そして今後起こり得る水害への対策等を検討した。しかし抜本的な解決は困難であった。それは岩屑なだれや泥流によって長瀬川上流部に堆積した土砂や、土石流によって堆積した琵琶沢の土砂が次々と流れ下っていく中で、本格的な復旧工事に取り掛かるのは当時の技術では限界があった。例えば1889年(明治22年)4月に雪解けを待って開始された堰の復旧工事が、6月の竣工直後、大雨によって上流より押し流された土砂によってたちまちのうちに元通りになってしまうという事態も発生した。結局後述のように、桧原湖、小野川湖、秋元湖に築堤が始まる1923年(大正12年)頃まで、長瀬川流域の治水、利水問題は解決の目途が立たなかった。
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