江戸時代後期から幕末・明治維新
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「久留米藩」の記事における「江戸時代後期から幕末・明治維新」の解説
第9代藩主・頼徳もまた趣味に傾倒して藩財政を悪化させ、天保3年(1832年)には亀王組一揆が発生している。 天保15年(1844年)に第10代藩主となった頼永は藩政改革を図るも病に倒れ、弘化3年(1846年)治世2年で夭折する。頼永が改革推進のために起用した有望な若手藩士は、真木保臣の影響を受け水戸学(天保学)を奉じる「天保学連」と呼ばれる人々であり、のちの藩政で大きな役割を担うことになる。しかし、頼永の後継者問題を契機に「天保学連」は「内同志」グループと「外同志」グループに分裂し、幕末から明治維新にかけて有能な人材を消耗することとなる。 詳細は「有馬頼咸#幕末の久留米藩」を参照 頼永の弟である第11代藩主・頼咸(慶頼)のもと、久留米藩は幕末期を迎える。藩政改革を巡る対立や「天保学連」内の抗争は幕末期の政治課題と結びつき、激しい権力抗争が行われた。嘉永5年(1852年)に藩内の尊王攘夷派(真木保臣が指導する「外同志」グループ)が失脚、真木保臣が蟄居処分を受けるなど尊王攘夷派が弾圧された。久留米藩の藩論の大勢は佐幕・公武合体派(門閥派および「内同志」グループ)が占めて不破美作、今井栄らが開明路線をとり、筑後川河口部に若津港(現:大川市)を整備して「雄飛丸」などの洋式船を買い入れ、諸藩でも有数の海軍を創設している。 しかし、慶応4年(1868年)には大政奉還を受ける形で尊王攘夷派が復権し、佐幕派の首脳を排除・粛清。戊辰戦争が始まると新政府軍側で参戦した。しかしながら、明治政府の「開国和親」路線に不満を持つ久留米藩攘夷派政権は、明治4年(1871年)に二卿事件と呼ばれるクーデター未遂事件に関与し、明治政府の命令を受けた熊本藩に城を占拠されている(久留米藩難事件)。 明治4年(1871年)7月、廃藩置県により久留米藩は廃されて久留米県となり、同年11月に三潴県に編入され、明治9年(1876年) 福岡県の一部となった。 明治17年(1884年)、華族令の公布により有馬家当主頼万(頼咸の子)は伯爵となった。また、のちに頼万の弟が分家して男爵家を創設している。
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