水雷兵器の進化と水雷艇の登場
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「水雷艇」の記事における「水雷兵器の進化と水雷艇の登場」の解説
小型艇をもって敵の大艦を攻撃するという海戦術は、古来から広く実施されてきた。例えば帆船時代の海戦戦術の一つとして、各種装載艇に強襲隊員を配員し、オールで航走して敵の根拠地内に突入して、敵の停泊艦隊を強襲することが行われた。しかしこれらの強襲作戦は基本的に移乗攻撃を前提としたものであり、大型艇にはカロネード砲を搭載することもあったとはいえ、これも対艦兵器というよりは火力支援用としての性格が強かった。 その後、水雷兵器が発達すると、小型艇でも敵の大艦を撃破しうる可能性が見いだされるようになった。初めて攻撃的に用いられた水雷兵器が外装水雷で、小型艇の艇首から長い棒を前方に突き出し、その先端に触発信管付きの爆薬を取り付けたものであった。これは南北戦争で実戦投入され、1864年10月には、合衆国海軍のウィリアム・クッシング海尉が指揮する小型ボートがプリマス港に侵入して、停泊していた連合国海軍の装甲艦「アルバマール」を外装水雷で攻撃、撃沈するという戦果を挙げているが、ボートも爆発の余波で沈没した。また同年には、逆に連合国海軍の潜水艇「H・L・ハンリー」が、やはり外装水雷を用いて合衆国海軍のスループ「フーサトニック」を撃沈したが、やはり自艇も爆発に巻き込まれて沈没した。このように、外装水雷は攻撃的に用いることが可能ではあったが、ほとんど敵艦と舷を接するまで肉薄する必要があり、攻撃側からみても危険極まりない戦法であった。 世界初の近代的な水雷艇とされるのが、1873年にイギリスのソーニクロフト社がノルウェー海軍の注文により建造したもので (HNoMS Rap) 、排水量7.5トン、速力15ノット、兵装としては曳航水雷を装備した。これはロープで水雷を曳航して敵艦の前路を横断し、敵艦の進路上に水雷が来るようにするものであった。 これと前後して、攻撃用水雷の決定版として登場したのが自走水雷(locomotive torpedo; 後の魚雷)であった。まず1865年、オーストリア=ハンガリー帝国海軍のジョヴァンニ・ルッピス(英語版)海佐によって発想され、1868年には、同国のフィウーメ(現在のクロアチアのリエカ)で舶用機関工場を経営していたイギリス人技術者であるロバート・ホワイトヘッド(英語版)によって実用化された。1869年からはイギリス海軍による試験も開始され、1877年には実戦にも投入された。これはイギリス海軍の装甲蒸気フリゲート「シャー」がペルー反乱軍の装甲艦「ワスカル」に対して発射したものであったが、このときは命中しなかった。その後、露土戦争中の1878年1月14日、ロシア帝国海軍のステパン・マカロフ大尉が指揮する水雷艇母艦「コンスタンチン大公」から発進した艦載水雷艇2隻がオスマン帝国海軍の砲艦「インティバフ」を襲撃、ホワイトヘッド式魚雷によってこれを撃沈したことで、史上初の魚雷による戦果が記録された。 そして1879年、イギリス海軍では、外装水雷を主兵装とする水雷艇として建造していた「ライトニング」(英語版)の艦首に魚雷発射管を装備して、魚雷を装備した水雷艇の嚆矢となった。 「アルベマール」への水雷攻撃 イギリス海軍「ライトニング」
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