母と二人三脚で打ち込んだ競技生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 18:59 UTC 版)
「小芝風花」の記事における「母と二人三脚で打ち込んだ競技生活」の解説
本名同じ。名前の風花は、松山千春のヒット曲「大空と大地の中で」の歌詞をヒントに母親がつけたという。 小学3年生から中学2年までの5年間、フィギュアスケートに打ち込んでいた。その前は器械体操を2年間習っていたが、当時トリノオリンピックに出場した荒川静香が金メダルを獲得したことが話題となった際、友達の母親に勧められたことをきっかけにのめり込む。オリンピックを目指し、野辺山合宿には3回、中学1年の2月にはバッジテスト7級を取得。臨海フィギュアSCに所属し、初めに小関悦也、そして平池大人に師事し、練習の合間には友野一希や山本草太らリンクメイトのみんなで一緒に遊んでいたとのこと。週6日、まだ星が出ている早朝に家を出て、スケートリンクで滑る。そしてそのまま学校へ行き、放課後に再び練習――。そんな生活が丸5年間続いた中で、跳躍の影響により両膝にオスグッド・シュラッター症候群を発症。2度の手術も乗り越えて3回転ジャンプも安定して跳べるようになり、2010年8月の第37回西日本中小学生フィギュアスケート競技会6級ジュニア選手権女子では8位に入賞。またアイスダンスでは、2011年10月の第15回全日本フィギュアスケートノービス選手権大会で、この年から設けられたノービスダンスに渡邊純也とペアを組んで出場し優勝している。 この頃、母親が練習の送り迎えの車内でかけていた影響で、松山千春や甲斐バンド、長渕剛などの音楽を好んでよく聞いた。また、スケートがうまくいかずにへこんだ時は「大空と大地の中で」を聞いて、「こんなにすごい曲の名前なんだから、こんなことでへこたれてたらアカン」と思い、頑張る勇気をもらっていたという。憧れのフィギュアスケーターは?との問いには「鈴木明子さんが大好きです! 表現力とダイナミックさがあって。スピードに乗ったままジャンプするところがすごく好きでした。当時は私もそういったジャンプが跳べるように意識していました。それに、豊かな表現力! 本当に好きです。」と答える。また、競技生活の拠点であった臨海スポーツセンター閉鎖の危機を救った髙橋大輔には「頭が上がらない」とのこと。テレビ番組『衝撃のアノ人に会ってみた!』で再会した際に、11歳の小芝がリンクで演技するビデオ映像が紹介されたが「かなりの実力ですよ」と髙橋も絶賛。小芝は「あこがれの選手だった」髙橋と「2回写真を撮って頂いたこともあって」とスケート場での思い出を打ち明け、共通の知人の話題で盛り上がったという。 そして「ずっと母と二人三脚でやってきたので、母のことは親というよりも“戦友”って思っています。」などと語る小芝は、大学まで現役の選手として頑張り、その後アイスショーで仕事をし、最終的には子供達にスケートを教えるインストラクターとして働くという人生設計を描いていたのだが、芸能界に入ったことでスケート人生を終えることに。しかしその2年後、彼女は女優・小芝としてもフィギュアの実力を披露する機会に恵まれる。伊藤みどりを始め、浅田真央、村上佳菜子らを輩出した名古屋スポーツセンターが舞台のドラマ『スケート靴の約束〜名古屋女子フィギュア物語〜』にスケーター役としての出演が決まったのは、クランクインの2週間前。当時は髪型も映画『魔女の宅急便』出演のために切ったショートのままではあったのだが、競技生活を離れて2年間のブランクも猛練習で勘を取り戻した小芝について、指導にあたった西田美和は「短期間にトリプルトウも跳べそうなところまで戻し、基礎ができてるということは凄い事だなと感じさせられたり。。。」、新横浜プリンスの男子達は「風花ちゃんに見とれて練習にならなかった事もしばしば。。。」と述べる。そんな小芝は、「フィギュアは5年やっていたんですけど辞めて2年。ちゃんと滑れるのか不安もありました」と振り返り「スケートに関わるお仕事をしたかったので嬉しかったです」と笑顔で語ったという。
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