機体の捜索
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 06:22 UTC 版)
事件後すぐに、日米ソの船舶や航空機が大韓航空機が墜落したと想定された樺太の西の海馬島周囲の海域を船舶や航空機によって捜索したが、ソ連は領海内への日米の艦艇の立ち入りは認めず、公海上での捜索に対しても日米の艦艇に対して進路妨害などを行った。 その後、ソ連は回収した機体の一部や遺品などの一部の回収物件を日本側へ引き渡したが、一方で「これ以外に遺体は見つかっていない」こと、「ブラックボックスは回収していない」ことを主張した。だが、機体の破片や遺体の一部が北海道の沿岸に事件直後から次々と流れ着いており、付近で操業していた日本の漁船などによって回収もされていたため、このようなソ連による発表内容は当時から疑問視されていた(なお、北海道沿岸に流れ着いた遺体のほとんどは、皮膚組織の一部など原形を留めていないものであった)。 ソ連崩壊後に行われたイズベスチヤ紙の取材では、複数の遺体とその一部および数々の遺品がソ連側によって実際に回収されていたものの、日本側に引き渡されたもの以外の全てが証拠隠滅のため、検査後に全て焼却されていたことが明らかにされた(ただし、当局の指示で調査に当たったダイバーは、当時見つけた遺体は少なく、しかもほとんど損傷していたと証言している)。なお、日本側に漂着した遺留品は、身元確認ができないまま2003年の忠霊祭において遺族会の了承の元で焼却処分にされた(これ以前に遺体の一部も同様に火葬されている)。 また、各国が必死になって捜索していたブラックボックスについては、実際には、事件後間もなくソ連当局によって回収されていた。ソ連当局は、コックピットボイスレコーダーとフライトデータレコーダーの分析を即座に済ませ、1983年11月28日には極秘報告書においてスパイ行為説を否定していた。だが実際には、「『スパイ飛行説』の反証となりうる可能性がある」との報告に基づき、モスクワはブラックボックス回収の事実を公表しなかった。日米は、上記の事実を知らないまま、ブラックボックスを半年以上も捜索し続けていたことになる。 なお、ブラックボックスの「極秘」の回収指示書が、ソ連当局から樺太の地元住民に渡されていたこと、地元住民がその指示書と同じものを実際に海中から引き揚げたこと、そして、住民が密かに自宅などに持ち帰っていた部品が撃墜された大韓航空機のものであったことが、日本テレビの『大追跡』の取材により、ソビエト連邦の崩壊直後の1991年に判明していた(この番組は翌1992年4月4日に放送された)。この番組では、ロシア国防省の許可の下、潜水艇を用いて墜落現場の撮影も行われ、事件後10年近く経っても現場付近に沈んでいた機体の残骸や犠牲者の衣服、そして遺骨の一部が撮影されていた(なお、この番組ではブラックボックスについてロシア側からは一切明らかにされなかったが、ロシア側から公開の意向を日本側に伝えたのが番組収録とほぼ同時期だったため、おそらく相前後したと思われる)。また、ジャーナリストのアンドレイ・イレーシュが入手していた、引き揚げられた本の一部が日本人乗客のものと推定され、遺族に渡された。
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