橋の建設にいたる動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 05:42 UTC 版)
「セーチェーニ鎖橋」の記事における「橋の建設にいたる動き」の解説
19世紀になると伯爵セーチェーニ・イシュトヴァーンが恒常的な橋の建設を本格的に検討するようになる。彼が恒常的な橋の必要を痛感したのは、1820年のことだったとされている。その年の12月に父の訃報を受け取ったセーチェーニは、急いで駆けつけようと川を渡ろうとしたが、舟橋などはすでに解体されていた。その一方で、まだ川の上を歩けるほどには凍結しておらず、氷を避けて向こう岸に届けてくれる渡し守を手配するのに時間がかかった。彼はこのときの経験から、恒常的な橋の重要性を認識するようになった。 セーチェーニ・イシュトヴァーンは1832年2月10日に「ブダペシュト橋同盟」を発足させ、構想の実現に向けて動き出した。「ブダペシュト」(ブダペスト)という名称が初めて使われたのは、この団体名だったとされる。同年7月にペシュト県が建設を承認すると、セーチェーニは翌月にヨーロッパにおいて架橋の技術が進んでいたイギリスに赴き、橋の視察を行なった。あわせて、メナイ橋をはじめ、多くの橋に携わった技師トーマス・テルフォードとも会見し、流氷などによって橋脚が押し流されないようにする工夫として、吊橋なら少ない橋脚でも長大な橋を架けられると助言された。 このイギリス視察中に、セーチェーニは技師ウィリアム・ティアニー・クラークとも知り合った。クラークはマーロウ橋をはじめとして、複数のチェーン吊橋を建設した実績を持っており、その年の10月には最初の計画図をまとめあげた。チェーン吊橋とは、メインケーブルにチェーンを使用する吊橋である。19世紀初頭には、ネックレスチェーンのような鉄輪をつなぎ合わせたリンクチェーンを使った吊橋も複数建設されたが、強度の問題などからあまり建設されなくなっていった。これに対して、上記マーロウ橋などで用いられているチェーンは、アイバー(eyebar)と呼ばれる両端に穴の開いた細長い鉄板をつなぎ合わせて鎖状にしたアイバーチェーンで、自転車のチェーンなどに近いとも言われる。セーチェーニ鎖橋で採用されたのも、このアイバーチェーンである。 W. T. クラークは設計はしたものの、実際にはブダペシュトに赴いていた時期は、年間に1、2か月程度と短いものだった。かわりに現地で工事の監督に当たった技師がアダム・クラークである。2人のクラークはかつて兄弟などとされることもあったが、現在では血縁関係自体が否定されている。アダム・クラークは出自も経歴もはっきりしない人物で、様々な説がある。彼はイギリス技術士協会の認定技師ではなかったが、ドナウ川の浚渫用機械の建造に携わったのがきっかけでセーチェーニの知るところとなり、セーチェーニは彼が非認定技師であることを承知の上で、経験豊富さを評価して橋の建設への協力を要請した。 橋の建設には、従来の舟橋や凍結した川を渡る際に通行税を徴収していたブダ市、ペシュト市の当局に根強い反対論があったほか、従来の通行税を免除されていた貴族たちも橋の建設費用を負担するべきかなど、建設費用をめぐる問題もあった。これに関連して、1836年にはウィーンの銀行家ゲオルグ・シナたちが、橋の建設のために株式会社を設立した。
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