極秘の月旅行計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/19 04:24 UTC 版)
「ソ連の有人月旅行計画」の記事における「極秘の月旅行計画」の解説
1960年代、アメリカ合衆国がアポロ計画を進める一方、ソビエト連邦(ソ連)は有人月旅行計画の存在を否定も肯定もしなかったが、1969年7月にアポロ11号の月面着陸が成功するや否や、ソ連政府は「有人月着陸の無謀さと無意味さ」を強調するコメントを発表し、有人月旅行計画の存在を公式に否定した。 しかし、実はソ連も1964年以来、政府命令で1974年6月23日に正式に中止されるまで、1975年を想定目標時期としていた有人月面着陸計画(ソユーズL3計画)が存在し、計画進行させていたことがソ連崩壊後に明らかになった。正式に中止命令が出された時点で、有人月宇宙船「ソユーズLOK」と着陸船「LK」については何とか完成させていた(2機が1974年8月と年末の無人自動操縦ドレス(完全)リハーサル用、2機が有人月面着陸用と使用用途を確定しており、さらに2機が建造中であった)。打ち上げ実験での大爆発以来、開発の目処が未だ立っていない運搬手段機材N-1ロケットを除き、他はほぼ有人月面着陸に使用出来るまで完成していたにも関わらず、それらの機体はスクラップにされた(着陸船や宇宙服の一部はパリのディズニーランドに常設展示中である)。 1969年に有人月面着陸計画の存在を公式に否定(月一番乗り国家の栄誉を永久に失ったことで、密かに進めていた計画の今後の目的・意義まで無意味化)したのに、何故、実際には1974年6月23日まで、1975年を想定とした有人月面着陸を中止・放棄せず狙い続けていた(意義を見いだしていた)のかについては、アポロ11号月着陸以前のソ連には、有人月面着陸計画は無かった(こととする)。競争に加わっていた訳では無いので負けた訳では無い(と弁解する道も拓ける)が、1972年に予定されているアポロの最終飛行(アポロ17号)の後、遅いスタートを切って後から参加した(こととしておいた)ソ連が米国アポロ計画よりも更に技術水準進歩・向上させた(後発の強みを逆手にとり、むしろ世界にアピール出来る)有人月面着陸計画を独自に成し遂げることは、依然、ソ連国家の国威発揚・社会主義体制の勝利として貢献し得る。
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