極真会館除名・芦原会館設立・死去まで
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「芦原英幸」の記事における「極真会館除名・芦原会館設立・死去まで」の解説
しかし1980年9月、自らの弟子石井和義に命じた芦原道場の関西進出などが原因となり、師である大山倍達と対立し極真会館を永久除名される。同年、自流である芦原会館を発足。相手の攻撃を受け流して側面・背後から反撃を加える『サバキ(捌き)』と呼ばれる技術を体系化し、「誰にもできるカラテ」を提唱、海外各国へも積極的に指導に赴き、芦原会館を国際的な空手会派へと育て上げた。しかし1992年に筋萎縮性側索硬化症(ALS)を発症し、2年以上に渡る闘病生活の末、その生涯を閉じた。体の自由が利かなくなっても口述で館長業務を続け、喋れなくなってからは文字盤を使い、手が動かなくなってからは目で文字盤を合図する等で、亡くなる当日まで館長業務に従事し続けた。最後に病院に運ばれる直前、次期館長である英典に文字盤で伝えた言葉は「後を頼む」だったという。指導した門下生には石井和義の他に二宮城光、照尾暢浩らがいる。他にも努力の男として芦原英幸著書「空手に燃え空手に生きる」の中で「努力の男」と紹介されている寺嶋隆浩という極真会館芦原道場入門後、僅か1年に満たない月日にして初段となる力量を持った若く精悍な男がいた。寺嶋隆浩は、口数は少なかったが空手における熱意とセンスは当時の道場生の誰もが認めるものであった。事実、大学2年生にして芦原道場岡山支部の門下生を指導する立場であった。芦原英幸氏は、寺嶋隆浩の空手のセンスと決して目立つことをしない人柄を信頼し、よく電話をしていた。寺嶋隆浩は大学卒業後、福岡県数学教師という煩忙な職に付きながらも芦原英幸氏の指導のもと熊本県北支部、博多支部を開設。九州北部を中心に精力的に芦原空手を広めた。また、本部道場の後輩にあたる長谷川一幸も全日本空手道選手権大会前には四国に赴き、芦原の特訓を受けた。太気拳創始者澤井健一、柔道家・棟田利幸(棟田康幸の父)といった武道家らとも交流が深く、特に少林寺拳法からは自らの技術・指導体系や、自派の道場普及方法に大きな影響を受けた。昭和40年代の第一次キックボクシングブームの頃には、自らキックスタイルの試合を四国に於いて開催している。また武器術では手裏剣・ナイフ投げの名人としても知られ、またトンファを改良したAバトンなる護身具も開発している。 著書の中では「師と弟子は一生の関係」のような考え方を否定していた芦原だが、自身の元を去り、独立した弟子達はほとんど許さず、自らの葬儀への参列も許さぬよう側近や家族に遺言しており、石井和義のように葬儀場で参列を断られた者も多かった。
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