植民地時代と独立初期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 06:02 UTC 版)
「インドネシアの首都」の記事における「植民地時代と独立初期」の解説
「ジャカルタの歴史(英語版)」も参照 16世紀末に東南アジア島嶼部に到達し、ジャワ島西北岸のバンテンに拠点を置いたオランダは、1621年、当時「ジャヤカルタ」と呼ばれていた場所に拠点を移し、地名をバタヴィアに改称した。当初はヨーロッパ風の城壁都市で、沿岸の低湿地帯にオランダ式の運河が張り巡らされていた。貧弱な衛生環境と排水システムの不備のため、住民の健康状態は悪く、マラリア、コレラ、赤痢などが蔓延していた。1808年、オランダ領東インド総督ヘルマン・ウィレム・ダンデルス(英語版)は、不衛生で老朽化した旧市街地(コタ地区(英語版))とは別に新しい街を建設すること決定した。新しい街は、南のヴェルテヴレッデン(英語版)の近くに建設された。この結果、バタヴィアは2つの中心を持つ都市となった。旧市街地のコタは商業の中心地で、海運や貿易の会社や倉庫が置かれ、新市街地のヴェルテヴレッデンは行政の中心地であり、軍の拠点も置かれた。2つの中心地は、モーレンヴリート運河と、運河の側を走る道路(現在のガジャ・マダ道路)で結ばれていた。 20世紀初頭、オランダ領東インド政府は、首都をバタヴィアからバンドンに移し、行政の中心地のバンドンと商業の中心地のバタヴィアを分離することを決定した。1920年代まで、首都をバンドンに移転する計画が進められていた。新首都のマスタープランの発表とともに、オランダ領東インドには電気通信(現在のテルコム・インドネシア)、鉄道網(現在のインドネシア鉄道会社(英語版))、郵便制度(現在のポス・インドネシア(英語版))、国防軍などが設立され、これらの本部はバンドンに置かれた。その中には、オランダ領東インドの行政の中心として計画されたグドゥン・サテ(英語版)など、現在も残っているものがある。しかし、バンドンへの首都移転計画は、世界恐慌と第二次世界大戦の勃発により完了せずに終わった。 1942年3月5日、日本軍がバタヴィアを陥落させた(蘭印作戦)。3月9日、オランダが正式に降伏し、植民地の統治権が日本に移った。都市名はジャカルタ(正式にはジャカルタ特別市)に変更された。 日本の降伏を受けて、1945年8月17日、インドネシアは独立を宣言した。独立宣言は、中央ジャカルタ(英語版)の東ペガンサアン通56番地にあるスカルノ邸で、スウィリョ(英語版)を委員長として制定された。スウィリョはジャカルタ特別市の初代市長に任命されたが、その直後にジャカルタ特別市はジャカルタ市国家管理局に改組された。スカルノらは、民族主義的な観点から、都市名をオランダ語のバタヴィアに戻さずにジャカルタのままとした。
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