植民地時代のスペイン語とマプチェ語の二言語使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 09:38 UTC 版)
「マプチェ語」の記事における「植民地時代のスペイン語とマプチェ語の二言語使用」の解説
16〜17世紀の中央チリ(英語版)は、居住地を奪われた先住民の坩堝となっていたため、17世紀にはマプチェ語、ケチュア語、スペイン語がかなりの二言語性を持って共存していたと主張されてきた。しかし、チリスペイン語に最も影響を与えた先住民の言語は、マプチェ語ではなくケチュア語である。 植民地時代には、多くのスペイン人とメスティーソがマプチェ語を話していた。例えば、17世紀のバルディビア要塞群(英語版)の兵士の多くは、マプチェ語をある程度理解していた。 17世紀から18世紀にかけて、チロエ諸島(英語版)の住民のほとんどは二言語話者であり、ジョン・バイロンによると、多くのスペイン人は地元のウィリチェ語(英語版)の方が美しいと考えて好んで使っていたという。同じ頃、ナルシソ・デ・サンタ・マリア(英語版)知事(英語版)は、島に入植したスペイン人がスペイン語をまともに話せず、ヴェリチェ語を話せたこと、そしてこの第二言語の方が使われていることに不満を抱いていた。
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