根元的解釈(ラジカル・インタープリテーション)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/16 08:10 UTC 版)
「ドナルド・デイヴィッドソン」の記事における「根元的解釈(ラジカル・インタープリテーション)」の解説
デイヴィッドソンの仕事を特徴づけるのは、種々の哲学問題を統一的に扱ったのとおなじ「統合」という態度である。デイヴィッドソンは、言語、心、行動、知識を考える際の基礎となる仮説的立脚点は、「根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)」だと考えた。根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)とは、たとえば、理解不能の言語を話す社会に置かれた人間を想定して、そこでどのようにその言語は理解されるのだろうかというようなことを含む。 ひとつ考えられるのは、メタ言語内であてはまるひとつの理論を人間は知っているのではないかということ。つまりその理論をあてはめると、その言語の文「s」は、どんなときでも文「p」である、または文「p」と翻訳されるという定理が導き出されるというわけである。しかしデイヴィッドソンは、ある文を「〜という意味だ」を使って解釈すると、文の意味の広がりばかりでなく、文の意図も反映してしまうという理由でその考えを退ける。つまり、文の意味だけを反映させるためには、「〜という意味だ」は使わずに連結することで、「真という価値」を持つことになるわけである。これを「真機能連結」という。デイヴィッドソンは、意味理論に必要な連結は「必要十分条件」であるとする。これは文「s」と文「p」の意味上の等価性を目指すという点で明確な選択である。しかし、ここでひとつ問題がある。それは「pがsの必要充分条件である」場合、連結する二つの命題のうち「s」が命題の名前であって命題そのものではないときには、文法上正しくないことになってしまうことだ。命題を示してみせるには述語と一緒に提出しなければならない。「sであり、かつsによってのみ命名され、または翻訳される」を満たす述語とはどういうものだろうか。言い換えると、「バナナは黄色い」であり、かつ「バナナは黄色い」以外のものではないというときに、「バナナは黄色い」によって満たされるのはどんな熟語だろうか。答えは「真である」である。こうして、デイヴィッドソンは、次のような結論に至った。つまり、意味理論は、対象言語におけるそれぞれの文に対して「sはpの必要十分条件であるという定理を形作る」ものでなければならない。言語における「真理論」は、「意味理論」として役にたつのである。 こう結論したことで、デイヴィッドソンはアルフレッド・タルスキの意味理論に迫ることが可能になった。タルスキは、人工言語に真を構成する理論を与えるにはどうしたらいいかを示した。そこで、デイヴィッドソンは、根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)の中心となる三つの問いを発する。第1に、真理論は自然言語に当てはめることができるだろうか。第2に、根源的解釈者(ラジカル・インタープリタ)が使えるもっともらしい証拠が得られたとして、解釈しようとする言語に対して真理論を構築し、検証することができるか。第3に、真理論を持つことが根源的解釈者(ラジカル・インタープリタ)が言語を理解することに十分役立つだろうか。デイヴィッドソンは、タルスキを援用して、最初の問いには肯定的な答えが得られるとした。 根源的解釈者(ラジカル・インタープリタ)が使用できるもっともらしい証拠とは何だろうか。デイヴィッドソンは信念と意味は分ちがたいと指摘する。人は、信念と、その人がその文で何を意味しようとするかを元にその文が真であるとするのである。もし、解釈者がその人がその文が真であるとするとき何を信じているのかを知っていれば、文の意味はそこから推察されるし、逆に、もし解釈者がその人がその文は真であるとするときその文で何を意味したいかを知っていれば、その人の信念は何かを推察することができるのである。そこで、デイヴィッドソンは、解釈者が信念にアクセスして証拠とすることがないようにする。解釈者はそこから推論し始めるからである。その代わり、デイヴィッドソンは、話者がその文は真だと言うなら、解釈者は普通にそう信じていいものとする。つまり特定の信念や意味について何も知らなくてもいいのである。ということは、解釈者は、話者とその話者があるときのある物事の状態についての発話に関して仮説を構築してもいいことになる。デイヴィッドソンは、ドイツ語話者が雨のときに言う“Es regnet”を例として挙げる。 デイヴィッドソンは、別個のケースでさえ、話者は客観的な状態について誤解されることがあるかもしれないと言う(たとえば、ドイツ語話者は、雨が降っていないときでも "Es regnet" と言う)が、そのことが文意全体をぶちこわしてしまうことはない。なぜかというと、話者の信念がほとんど正しく、整合性が取れているからである。もしそうでなければ、われわれは話者を話者であると認識しないだろう。これがデイヴィッドソンの「プリンシプル・オブ・チャリティー」であり、これゆえに解釈者は集めた証拠でその言語の真理論の検証ができるのである。 一見すると、真理論は言語の解釈には不十分であるようにも見える。結局のところ、もし真条件がすべてならば、「もし雪が白く草が緑であり、かつそうでしかないならば "Schnee ist weiss" は真である」のような変則的な文を、どうやって偽であると証明することができるだろうか。デイヴィッドソンは、言語は部品の組み合わせであり、同時に全体的であると言う。文は単語の意味を元にしている、しかし、単語の意味はその単語が現れる文の全体性を拠り所としている。この全体的な制約が、真理論が法のようでなければならないということと共に、不確定性を最小にしてコミュニケーションがうまくいく条件を満たす。 まとめると、根源的解釈(ラジカル・インタープリテーション)があきらかにするものは、コミュニケーションがおこるために何が必要かつ十分であるかということである。そのための条件は、1)話者が話者であると認めるために、話者の信念がほとんど整合的であり、また正しいこと、2)意味の不確定性は、コミュニケーションの根底を崩すものではないが、必要な分だけの制約がなければならないことである。 I conclude that there is no such thing as a language, not if a language is anything like what many philosophers and linguists have supposed. There is therefore no such thing to be learned, mastered, or born with. We must give up the idea of a clearly defined shared structure which language-users acquire and then apply to cases. And we should try again to say how convention in any important sense is involved in language; or, as I think, we should give up the attempt to illuminate how we communicate by appeal to conventions. — "A Nice Derangement of Epitaphs," Truth and Interpretation、446
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