栄西、行勇による再興とは? わかりやすく解説

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栄西、行勇による再興

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 21:24 UTC 版)

東大寺の歴史」の記事における「栄西、行勇による再興」の解説

重源死去以降も、復興事業続けられその後大勧進の職は重源から栄西退耕行勇へと移っていった。栄西承元2年1208年)に落雷によって失われた法勝寺九重塔再建かかりきりだったため、東大寺への重要な働きをしたのは、三代目大勧進行勇であった栄西後鳥羽天皇信頼得た、力を持ったであったが、この栄西大勧進就いた在任建永元年1206年) - 建保3年1215年))ことが、東大寺苦境もたらしたこのころ栄西は、護願寺であった法勝寺九重塔再建にも同時にあたっており、朝廷助力もそちらに大きく向けられた。ために、東大寺顧みられず、復興はすすまなかった。それどころか、重源の折に得た周防国という重要な財源取上げられた上、法勝寺振分けられる始末だった。この九重塔再建建保元年1213年)まで続けられた。 この苦難は、第三代の大勧進行勇在任建保3年1215年) - 仁治2年1241年))が救うこととなる。行勇鎌倉幕府と強いつながり持っていて、幕府行勇への援助東大寺にももたらされた。この代において東大寺は、安芸国周防国造営料国とし国分門や東塔講堂などを復興させている。 承久の乱終り後鳥羽天皇統の後に就いた後堀河天皇後ろ楯弱く権威の確立重要な課題であった。そのために寺社復興事業政策としてあり、東大寺へも援助の眼は向けられていたのだが、必ずしも綿密の関係とはいかなかった。当時朝廷東大寺対立側面は、遠藤基郎によれば四つ事件象徴されるという。それは、ともに東大寺権利を持つ鞆田荘大部荘での主導権争い周防国返還交渉問題子院東南院門跡後継問題であった。これらは朝廷東大寺争い以外にも、東大寺別当大衆などの内部対立生んだ。この鬱憤は、特に大部問題のときに爆発した。これは、東大寺領家職を持つ大部荘の預所着任していた北白河院女房治部卿局が、年貢納入を対捍した事件であった朝廷一大権力者であり、東大寺から一連の騒動原因とみられていた北白河院邸宅に詰寄って強訴し、ついに寛喜3年1231年大部預所職停止とともに、元の造営料国周防国返還となった。 この時期東南院尊勝院並んで院近臣藤原顕頼の子であり東大寺別当にもなった顕恵が建立した西室院擡頭した。この系統から三代別当が出、その後も有力院家の座を守り東大寺権限を持ついくつかの荘園経営任じたまた、顕恵が権力者建春門院のおじであり、以降西室院系統から天皇御願寺尊勝寺法勝寺執行修理別当務めるものが出てくるなど、前述のように朝廷東大寺抗争がある一方で両者の関係強化役立った

※この「栄西、行勇による再興」の解説は、「東大寺の歴史」の解説の一部です。
「栄西、行勇による再興」を含む「東大寺の歴史」の記事については、「東大寺の歴史」の概要を参照ください。

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