栄西、行勇による再興
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「東大寺の歴史」の記事における「栄西、行勇による再興」の解説
重源死去以降も、復興事業は続けられ、その後大勧進の職は重源から栄西、退耕行勇へと移っていった。栄西は承元2年(1208年)に落雷によって失われた法勝寺九重塔の再建にかかりきりだったため、東大寺への重要な働きをしたのは、三代目大勧進の行勇であった。 栄西は後鳥羽天皇の信頼を得た、力を持った僧であったが、この栄西が大勧進に就いた(在任、建永元年(1206年) - 建保3年(1215年))ことが、東大寺に苦境をもたらした。このころ栄西は、護願寺であった法勝寺の九重塔の再建にも同時にあたっており、朝廷の助力もそちらに大きく向けられた。ために、東大寺は顧みられず、復興はすすまなかった。それどころか、重源の折に得た周防国という重要な財源も取上げられた上、法勝寺に振分けられる始末だった。この九重塔の再建は建保元年(1213年)まで続けられた。 この苦難は、第三代の大勧進、行勇(在任、建保3年(1215年) - 仁治2年(1241年))が救うこととなる。行勇は鎌倉幕府と強いつながりを持っていて、幕府の行勇への援助は東大寺にももたらされた。この代において東大寺は、安芸国や周防国を造営料国とし国分門や東塔、講堂などを復興させている。 承久の乱が終り後鳥羽天皇統の後に就いた後堀河天皇は後ろ楯が弱く、権威の確立が重要な課題であった。そのために寺社の復興事業が政策としてあり、東大寺へも援助の眼は向けられていたのだが、必ずしも綿密の関係とはいかなかった。当時の朝廷と東大寺の対立の側面は、遠藤基郎によれば四つの事件に象徴されるという。それは、ともに東大寺が権利を持つ鞆田荘、大部荘での主導権争い、周防国の返還交渉問題、子院東南院門跡後継問題であった。これらは朝廷と東大寺の争い以外にも、東大寺別当と大衆などの内部対立も生んだ。この鬱憤は、特に大部荘問題のときに爆発した。これは、東大寺が領家職を持つ大部荘の預所に着任していた北白河院女房の治部卿局が、年貢納入を対捍した事件であった。朝廷の一大権力者であり、東大寺から一連の騒動の原因とみられていた北白河院の邸宅に詰寄って強訴し、ついに寛喜3年(1231年)大部荘預所職停止とともに、元の造営料国周防国が返還となった。 この時期、東南院と尊勝院と並んで、院近臣の藤原顕頼の子であり東大寺別当にもなった顕恵が建立した西室院が擡頭した。この系統から三代の別当が出、その後も有力院家の座を守り、東大寺が権限を持ついくつかの荘園の経営も任じた。また、顕恵が権力者建春門院のおじであり、以降西室院系統から天皇御願寺の尊勝寺や法勝寺の執行や修理別当を務めるものが出てくるなど、前述のように朝廷と東大寺の抗争がある一方で、両者の関係強化に役立った。
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