柳田の遠野探訪とは? わかりやすく解説

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柳田の遠野探訪

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/27 08:35 UTC 版)

「遠野物語」記事における「柳田の遠野探訪」の解説

柳田國男初め遠野訪れたのは明治42年1909年8月23日の夜のこと。8月22日日曜日午後11時、上野海岸回り青森行き列車乗った柳田は、翌23日到着した花巻駅下車人力車乗り換え矢沢村土沢宮守、と経て鱒沢沢田橋のたもとにあった木造三階建ての宿屋食事人力車乗り継ぎ遠野到着したのは夜の8時であった柳田遠野では高善旅館に宿をとり、主人高橋善次郎から馬を借りて伊納嘉矩や佐々木喜善訪ね南部家所縁の地などを回ったが、これらの日程には諸説存在しており、定説があるわけではない。ここでは便宜上岩崎敏夫による説を主として解説を行う。 24日の朝、鍋倉神社近くにあった上閉伊郡役所訪ね郡内説明地図貰いうけ、まず土淵村山口佐々木喜善宅を目指した。あいにく喜善は東京にいたため不在で、家には養母イチ叔母のフクヨがおり、柳田来意伝えると、二人から土淵村助役務めていた北川清紹介された。来た道を1kmほど戻り訪れた北川家で清より話を聞き翌日、清の代わりに附馬牛小学校教員務めていた息子真澄附馬牛まで柳田案内をすることになったその日の晩には新屋敷まで伊能嘉矩訪ねているが伊納不在であった25日北川真澄案内早池峰山道を通り附馬牛辿り着いた柳田上柳附馬牛役場訪れ役場書記末崎太郎附馬牛小学校から呼び寄せられた福田次郎二人より附馬牛村成り立ち歴史について聞き附馬牛源流のひとつである東禅寺跡へと案内された。帰り石羽根から大袋通りその道すがら菅原神社鹿踊りが行われているのを目撃し、また掲げられたムカイトロゲに旅情感じ、忍峠へと入っていった。宿に戻ると伊能訪ねてきたという事であったが、附馬牛発った時点黄昏時であったので宿に着いたのは夜の8頃と推測され、既に遅い時間であった事からこの日はそのまま休む事にした。 26日には先日宿を訪ねてきた新屋敷伊能の家を訪問し伊能台湾研究に関する研究資料、および『阿曾沼興廃記』や『旧事記』といった遠野に関する資料オシラサマ雨風祭の藁人形、あるいは遠野周辺に伝わる妖怪に関する伝承住人達の生活の在り方聞いた27日伊能は高善旅館まで再び出向き柳田南部男爵邸へ案内し屋敷保守にあたっていた及川忠兵、郷土資料家の鈴木十郎案内男爵家に伝わる古文書受け継がれてきた宝物見たその後昼過ぎ人力車乗り、来たときとは異なり下組町から愛宕橋渡り綾織村小峠越えて日詰街道盛岡向かった。後の『現代随想全集』で「帰り横手から五色温泉に遊ぶ」と述懐されていることから、盛岡から秋田行き帰京したのは31日とされている。 上記の説のほか、遠野到着した翌日24日にまず伊能訪ねたとする説。山口佐々木家訪問し土淵村山口から附馬牛に出る時でした。あそこは南部公の寺があるんで、それを見に行ったのです。ちょうどシシ踊りなんかしてました」という『民俗学岩手』における記述から、土淵から附馬牛向かった推測し一連の行程25日行われたとする説。当時柳田立場考慮する郡役所立ち寄って何もなく送り出されるのは不自然であるとし、郡役所立ち寄る事は無かったとする説。あるいは遠野離れたのは26日であったとする説などが存在する

※この「柳田の遠野探訪」の解説は、「遠野物語」の解説の一部です。
「柳田の遠野探訪」を含む「遠野物語」の記事については、「遠野物語」の概要を参照ください。

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