松の廊下での刃傷とは? わかりやすく解説

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松の廊下での刃傷

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:28 UTC 版)

吉良義央」の記事における「松の廊下での刃傷」の解説

元禄14年1701年2月4日赤穂藩主・浅野長矩伊予吉田藩主・伊達村豊両名が、東山天皇勅使である柳原資廉高野保春霊元上皇院使である清閑寺熈定らの御馳走人命じられた。義央は高家肝煎饗応添役だったが、朝廷への年賀使者として京都におり江戸帰着したのは2月29日だった。長矩は過去1度勅使御馳走人経験していたのだが、以前とは変更になっていることもあって手違い生じていた。ここに擦れ違い生じた、と見る向きもある。 3月14日午前10時過ぎ、松之大廊下において、義央は浅野長矩から背中と額を斬りつけられた。長矩は居合わせた留守居番梶川頼照取り押さえられ、義央は高家品川伊氏畠山義寧らによって別室運ばれた。外科医栗崎道有治療もあって命は助かったものの、額の傷は残ったその後目付大久保忠鎮らの取り調べを受けるが、長矩を取り調べた目付多門重共の『多門筆記』によると、義央は「拙者何の恨うけ候覚えこれ無く、全く内匠頭乱心相見申し候。且つ老体の事ゆえ何を恨み申し候や万々覚えこれ無き由」と答えている(多門筆記事件のだいぶ後に書かれたもので、他者の作も考えられる)。長矩は、即日切腹を命ぜられた。 義央は3月26日高家肝煎職の御役御免願い提出8月13日には松平信望5000石の旗本)の本所屋敷屋敷替え拝命受領9月3日であった当時本所江戸場末発展途上の地であった。なお旧赤穂藩士との確執噂され隣家阿波富田藩蜂須賀飛騨守から吉良呉服橋内より移転させるよう嘆願があったとされる。これは堀部安兵衛らが大石送った8月19日書簡書かれてあったことで、後世になって流されたものとされるまた、屋敷替えに富子は同道していなかったといわれてきたが、義央も隠居し養嗣子の義周に家督譲って以降は、妻の富子らと共に上杉屋敷などに住み本所屋敷には常住していなかったことが『桑名藩所伝覚書』・『江赤見聞記』・『忠誠後鑑録』などの複数史料によって判明している。 この屋敷替え合わせるように、8月21日大目付庄田安利高家肝煎大友義孝書院番士東条冬重など、義央に近いと見られ人物が「勤めよくない」として罷免され小普請編入となっている。 12月11日、義央は隠居願い提出した。これは即座に受理された。養嗣子・義周が家督相続した元禄15年1702年7月浅野長矩の弟・長広浅野本家預かりとなった。 これと前後して茶人山田宗徧本所茶室構えていたので、義央から吉良家茶会にしばしば招かれていた。12月14日本所吉良邸で茶会があるとの情報が宗徧を通じて、宗徧の弟子・脇屋新兵衛(その正体四十七士一人大高忠雄)につかまれていた。 義央は養嗣子の義周に家督譲って以降上杉屋敷などに住み本所屋敷には常住していなかったため、常に上杉の兵達に守られている状況にあった。そのため、義央が上杉屋敷離れ本所吉良邸で茶会を行うこの日を元赤穂藩筆頭家老大石良雄討ち入り日に決定した

※この「松の廊下での刃傷」の解説は、「吉良義央」の解説の一部です。
「松の廊下での刃傷」を含む「吉良義央」の記事については、「吉良義央」の概要を参照ください。

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