東遷事業の開始
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近世初頭の利根川の東遷事業は、かつては文禄3年(1594年)に新郷(現・羽生市)で会の川を締め切った工事に始まったといわれていた。しかし、近年の研究では、締め切りは忍領の水害対策であり、東遷事業のはじまりは、27年後の元和7年(1621年)とされている。 会の川の締め切り 文禄3年(1594年)に羽生領上川俣にて会の川の締め切りがおこなわれた。忍城の城主であった松平忠吉が家来の小笠原三郎左衛門に命じ、工事が行われたといわれるが、関東郡代伊奈忠治との連絡のもと進められたとも推測されている 。 備前堤(綾瀬川流域)の開発 慶長年間(1596年-1615年)には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという。 小名木川と新川の開削 行徳塩田と隅田川を結ぶため、天正18年(1590年)に小名木川を、寛永6年(1629年)に新川を開削し、江戸川下流部と江戸の町をつなぐ水運路を整備した。 利根川と渡良瀬川の河川整理 元和7年(1621年)、浅間川の締め切りと、新川通の開削、および権現堂川の拡幅が行われ、同時に赤堀川の掘削が始められた。利根川と渡良瀬川が合流し権現堂川・太日川がその下流となった。なお太日川はほぼ現在の江戸川だが全く同じではない。現在の江戸川の上流部は寛永18年(1641年)に開削した人工河川であり、下流部も人工河川とみる説もある。 寛永期の河川整理 寛永6年(1629年)、荒川の西遷が行われた。熊谷市久下で荒川を締め切り和田吉野川・市野川を経由し入間川に付け、荒川の下流は隅田川となり旧流路は元荒川となった。 同じく寛永6年(1629年)、鬼怒川を小貝川と分離し板戸井の台地を4キロメートルにわたって開削し常陸川に合流させ、合流点を約30キロメートル上流に移動した。翌寛永7年(1630年)に、布佐・布川間を開削し、常陸川を南流させ、また戸田井・羽根野を開削し小貝川も南流させ常陸川の狭窄部のすぐ上流に合流点を付け替えた。 赤堀川の掘削 新川通の開削や権現堂川の拡幅とともに元和7年(1621年)に掘削が始められた赤堀川は、太平洋への分水嶺を越える水路を開削するものであり、その目的は利根川の水を香取海へ注ぐ常陸川へ流し、太平洋へ注ぐ銚子河口まで繋がる水運を整備することだった。しかし、台地(猿島台地)を掘削するために難工事となり、寛永12年(1635年)の工事も含めて2度失敗している。承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事により渇水期も常時通水に成功、これにより銚子河口まで繋がる江戸の水運が成立した。この時の赤堀川の川幅は10間(18メートル)程度と狭く、利根川の洪水を流下させる機能はなかった。 河川整理と用水路開発とその後 さらに、寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した。しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による浅瀬の形成を促し、水量の少ない時期には船の通行を困難にした。特に関宿からの旧常陸川(現在の利根川下流域)では相馬郡小堀村、江戸川では松戸までの区間は浅瀬の被害が深刻で、この両区間では艀下船と呼ばれる小型船が積荷の一部を分載して自船の喫水を小さくすることで浅瀬との衝突を避けた。これにより小堀・松戸の両河岸には艀下船の河岸問屋が栄えた。
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