東海道線瀬田川鉄橋急行列車脱線転覆事故
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「日本の鉄道事故 (1949年以前)」の記事における「東海道線瀬田川鉄橋急行列車脱線転覆事故」の解説
1934年(昭和9年)9月21日(室戸台風) 東海道本線草津駅 - 石山駅間(現在の瀬田駅 - 石山駅間、当時瀬田駅と南草津駅は未開業)の瀬田川橋梁上を徐行運転していた下り急行列車(C53 73+客車11両)が室戸台風の強風により脱線。3両目以降の9両の客車が橋梁上に転覆し、11名が死亡、202名が負傷した。 橋梁上での強風による客車の脱線という点では明治時代の箒川鉄橋列車転落事故や後年の余部鉄橋列車転落事故と類似しているが、こちらは複線橋梁で、客車がもう片方の線路がある側に倒れて寄りかかったため転落(水没)という最悪の事態は避けられた。事故のかなり前から強風だったにも関わらず運行を継続した乗務員の判断が問題視された が、最終的には不可抗力と結論が出された。 寝台車マイネフ37200が大破し復旧困難であったことから翌年5月廃車となったが、1937年に試験車として改造され復活、1975年まで在籍した。国鉄オハ31系客車を参照。 事故を機に風速計の設置が促進され、防風設備の研究が進められた。 鉄道電話が通じず、鉄道省は5時間もの間死傷者の氏名すら把握できなかった。鉄道省は空中架線に問題があるとして鉄道無電の整備を逓信省に要望した。 久留島武彦(児童文学者)、中井一夫(当時は衆議院議員・神戸又新日報社長、のちの神戸市長)が乗車していたが一命を取り留めている。 この事故の直前に東海道本線摂津富田駅付近で旅客列車が脱線転覆、また同線野洲駅 - 守山駅間の野洲川橋梁で貨物列車が転落している。国鉄の強風への対策不足が露呈する結果となった。 なお同日午前には、大阪電気軌道奈良線(現・近鉄奈良線)でも大阪府布施町(現・東大阪市)内で電車(デボ1形5)が脱線転覆した。 湾曲したレールに注目 摂津富田駅付近で脱線転覆した列車
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