東京電力の設立
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「東京電力 (1925-1928)」の記事における「東京電力の設立」の解説
東邦電力の東京進出を主導したのは、同社副社長の松永安左エ門である。東邦電力は本社を名古屋電灯時代からの名古屋市より東京市へと移し、関東大震災後には焼失した東京市内の商工業地区へと供給する「東京復興電気会社」の計画をまとめるなど、早くから東京進出を念頭に置いていた。さらに復興電気会社の計画作成後の1923年10月、松永は新聞紙上において、震災復興のための電気事業は (1) 組織を根本的に改革し、(2) 低廉・豊富な電気を永久に供給する方法を攻究するならば、震災前の水準の電気を従前の半額の料金で供給でき近い将来には供給を5倍に増加させうるであろう、と述べて東京電灯への宣戦布告をしている。松永が晩年(1964年)に執筆した『私の履歴書』によると、東京進出の動機は東京の電気事業(東京電灯)の是正のためもあるが、正直なところは理想実現を目指し自身の手で電気事業を統一したいという野心があったためであるという。東京進出の体制を整えるため、松永は早川電力・群馬電力の2社を東邦電力の支配下に収めた。 1924年12月25日、早川電力と群馬電力はそれぞれ株主総会を開き、両社の間で交わされた合併契約を承認した。合併比率は1対1。両社の合併を推進したのは東京進出を目指す東邦電力で、早川電力社長と群馬電力副社長を兼ねる松永が仲介役となって合併を実現させた。早川電力の株主総会において松永は、群馬電力は京浜電気鉄道から引き継いだ将来性のある有利な供給区域を持っており、この供給区域に対して早川電力も供給するならば有利であり、さらに将来の電源開発に際して群馬電力の送電網を活用して供給できるならば得策であるから、両社の合併は東京やその付近の開発にとって必須である、という旨を説明している。監督官庁からの合併認可は翌1925年3月4日付で下りた。 1925年3月16日、両社合併による新会社東京電力株式会社の創立総会が開催された。成立した東京電力の資本金は、早川電力の3000万円と群馬電力の1225万円をあわせた4225万円(うち2800万円払込)。東邦電力はそのうち4割を出資し、会社の経営を取り仕切った。設立時、東邦電力との間に1928年を目処に合併するという了解があったという。また安田保善社が第2の株主(出資比率8パーセント)で、金融関係は安田財閥の後援を受けた。社長は群馬電力社長の田島達策、副社長は松永安左エ門、専務は群馬電力の宮口竹雄、常務は東邦電力の進藤甲兵と早川電力の結城安次がそれぞれ就任した。田島・宮口は安田関係の代表者で金融方面、結城は貴族院方面、1年遅れて常務に就任した佐竹義文は政党方面に対するいわば「看板」で、会社の実権は東邦電力の松永や進藤が握っていたという。 本店所在地は東京市麹町区永楽町2丁目10番地(現・千代田区大手町)。本社社屋は永楽ビルディングである。そのほか神奈川県川崎市古河通に川崎営業所を、静岡県浜松市伝馬町に浜松営業所をそれぞれ構えた。
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