東京電力の積極経営
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「東京電力 (1925-1928)」の記事における「東京電力の積極経営」の解説
東京電力は設立直後から積極経営を展開した。まず1926年(大正15年)4月9日合併認可・30日合併報告総会という手順で田代川水力電気株式会社を合併した。同社は旧早川電力が株式の大部分を引き受けることで資本金500万円にて1922年8月4日に設立。早川開発に続く早川電力の第二期工事として計画されていた田代川(大井川上流)の開発を担当していた開発会社であり、合併時点では3つの発電所と川崎までの送電線を建設中であった。合併比率は1対1で、合併に伴う増資は500万円(うち125万円払込)である、 続いて1926年10月12日合併認可・20日合併報告総会という手順にて静岡電力株式会社を合併した。同社は1920年に富士製紙から電気事業(旧四日市製紙の電気事業が起源)を譲り受けて開業した電力会社で、静岡県中部や山梨県南部に供給区域を持ち、他に静岡市営電気供給事業・富士製紙などへ電力を供給していた。地方の会社としては成績が良く、これを東京電灯に取られるわけにはいかないということで松永が合併を希望したという。静岡電力の資本金1500万円(うち750万円払込)に対し合併に伴う東京電力の増資幅は1.4倍の2100万円(うち1050万円払込)であり、合併後の東京電力の資本金は6825万円となっている。 東京電力が静岡電力を合併するのに先立ち、1926年5月に東京電灯が帝国電灯を合併した。帝国電灯は関東を中心に散在的ではあるが広範な供給区域を持っており、東京電力でも関東進出の手段として合併を狙っていたことから、これを防ぐために東京電灯が先に合併したという。その前年に東京電灯が静岡県下の東洋モスリン電気事業部・富士水電を吸収したのも、旧早川電力や大同電力・日本電力など同業他社に吸収されて東京進出の足掛かりとされるのを防ぐ意図があった。 東京電力では合併以外にも事業拡大策を矢継ぎ早に打ち出した。まず発足直後の1925年3月、大井川水系寸又川の開発を計画する寸又川電気株式会社の株式を取得し、松永が社長を兼任して経営を引き受けた。同社は1924年6月に資本金150万円で設立されたもので、三重県出身の実業家熊澤一衛が発起人総代・初代社長であった。次いで1925年12月に資本金1000万円で上毛電力株式会社が設立されると、役員を送って同社と提携した。同社は事業に失敗した上毛製紙(1919年設立)を電力会社に転換すべく設立されたもので、上毛製紙を吸収の上、利根川水系片品川(群馬県)の開発に着手した。社長は大川平三郎である。翌1926年10月、東京電力では完成した上毛電力伏田発電所からの受電を始めた。 さらに1926年12月25日、株式の大部分を握る傍系会社として資本金1000万円の須川電力株式会社を設立した。同社は東京電力と関東水力電気・吾妻川電力の3社から水利権を集めて起業されたもので、東京電力からは金井発電所の上流側にある吾妻川の未開発水利権3地点が提供された。須川電力では開発計画を見直した上で翌1927年11月に松谷発電所を着工した。また傍系会社にはほかに東京湾電気株式会社があった。同社は1926年5月20日に資本金500万円で設立。早川電力の時代から電力を供給していた浅野財閥系の東京湾埋立から電気事業を分離させて立ち上げた新会社であり、神奈川県下の東京湾埋立地のうち橘樹郡鶴見町・田島町両地先に供給した。この操作により東京電力は間接的に供給区域を拡大した形となっている。
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