東ゴート王国とビザンツ帝国のイタリア再征服
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「中世ヨーロッパにおける教会と国家」の記事における「東ゴート王国とビザンツ帝国のイタリア再征服」の解説
詳細は「東ゴート王国」を参照 ローマ帝国の西方正帝(西ローマ皇帝)であったロムルス・アウグストゥルスおよびユリウス・ネポスが476年から480年にかけてオドアケルらによって廃位されると、西ローマ皇帝は存在しなくなった。しかし、ローマ帝国の支配体制自体が変化を蒙ったわけではない。オドアケルはローマ帝国の宗主権を認めており、そのオドアケルの政権を打倒した東ゴート王テオドリックもローマ帝国の宗主権を認め、この間、西ローマ帝国の元老院も存続していた。しかしながら、東ゴート族はアリウス派を信仰しており、このことが東ローマ帝国との政治的対立に結びつくこととなった。また王国の統治はローマ人官僚の貢献によって支えられていたが、彼らは正統信仰を維持しており、信仰上の対立がゴート人とローマ人の不和の原因となって王国の統治を攪乱することとなった。テオドリックは寛容な宗教政策を展開して王国内の平和を保っていたが、晩年には宗教問題が政治問題化した。たとえば、ボエティウスの事例が典型的である。ローマの有力貴族アルビヌスが王位継承問題に絡んで東ローマ帝国と通じた問題で、ボエティウスはアルビヌスを弁護して投獄され、524年に処刑された。東ローマ帝国はこれをカトリック教会に対する迫害と捉え、当時アリウス派に一時的な寛容政策をとっていたユスティヌス1世の態度を硬化させた。ユスティヌスは527年に異端に対する勅令を出してアリウス派を弾圧し、以前からカルケドン信条を守っていたブルグント王ジギスムントやカトリック信仰に転じたヴァンダル王ヒルデリック(英語版)と同盟してテオドリックを牽制した。 ユスティヌス1世を継承した甥のユスティニアヌス1世は532年にササン朝のホスロー1世と永久平和条約を結んで帝国東部辺境を安定させると、西方の旧西ローマ帝国領の再征服に乗り出した。まずヴァンダル王国に矛先を向け、533年にカルタゴを占領し、534年にはヴァンダル王国を完全に滅ぼした。さらに535年、テオダハドが東ローマ帝国と友好的な東ゴート女王アマラスンタを殺害すると、これを口実としてイタリア半島に遠征軍を派遣した。東ローマ帝国軍は当初有利に事を進めたが、最高司令官ベリサリウスと将軍ナルセスの間に不和が生じるなど指揮系統に混乱が生じた。ナルセスが本国に召還されると、539年にはベリサリウスは東ゴート族を懐柔することに成功したが、ベリサリウスはササン朝の侵入に対抗するため540年に本国に召還されてしまい、失望した東ゴート族は再び反乱を起こした。東ゴート族はやがてトーティラを王に推戴して勢力を盛り返した。544年にベリサリウスはイタリアに戻るが、兵力不足から有効な反撃が出来ず、549年には再び本国へ召還された。550年になると、トーティラ率いる東ゴート軍はローマを占領し、イタリア半島をほとんど支配する状態となって、シチリア島に侵入するまでになった。552年にナルセスが大軍をもって派遣されると、ようやく東ローマ帝国軍は反撃に転じ、ブスタ・ガロールムの戦い(ギリシア語: Μάχη των Βουσταγαλλώρων Battle of Busta Gallorum)で東ゴート族を大いに破った。トーティラは殺され、東ゴート族はなおも各地に拠って抵抗したが、554年にはほぼイタリアに平和が戻り、561年には抵抗は完全に収まった。 しかしこの戦乱によってイタリア半島の荒廃は進み、かつての繁栄を失った。東ゴート王国下においては、古典古代の文化を保存する活動は維持されており、前述したボエティウスが『哲学の慰め』を著述してプラトンやアリストテレスの哲学概念を用いてキリスト教教義を論じたり、カッシオドルスが『ゴート人の歴史』を書いてローマ人とゴート人の調和を説いたりといった文化活動が見られた。カッシオドルスは修道院教育に自由七科を導入するなど修道院文化の育成にも関わるが、この伝統は戦乱とともに一時廃れた。
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