来島どっくグループによる再建
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 01:09 UTC 版)
「佐世保重工業」の記事における「来島どっくグループによる再建」の解説
オイルショックにより大型船の受注が途絶え、SSKの経営は破綻寸前まで追い詰められた。このため当時の辻一三・佐世保市長は国に救済策を要求、福田赳夫首相・永野重雄日商会頭やメインバンクの日本興業銀行池浦喜三郎頭取の要請で坪内寿夫が率いる来島どっくグループに経営再建が委ねられた。 徹底したコスト管理や課制の廃止・ボーナス凍結など坪内の経営再建策は労働現場の波紋を呼び、労使協調路線を取っていた労働組合ですら不当労働行為を訴えるまで反発した。更に来島どっくグループ入りの経緯や1978年(昭和53年) - 1982年(昭和57年)に実施した原子力船むつの原子炉の遮へい改修工事 など時として政治的な工作を弄するなど、政業癒着として批判されることも多く、桜田武は「一企業を政治的な工作で再建するなど発展途上国の政商のすること」とまで言い切った。 一方でSSKの来島グループ入り前後の模様を描いた「太陽を、つかむ男」(角川書店、後に「小説 会社再建」と改題され集英社文庫に収録)を著した高杉良が指摘する様に、 来島グループによる救済が行われなかった場合、佐世保重工業は手形の決済資金を調達できず、間違いなく倒産していた。 来島グループ入り以前は労働組合が管理職の人事にまで介入するなど、会社側と労働組合の関係は労使協調というレベルを大きく超えて癒着といえる域に達しており、坪内は関係を正常なものに戻そうとしていたに過ぎない。さらに高杉は、労働組合の上部団体である造船重機労連側では「労連に加盟する他の造船会社の組合にとっては、労組と会社側の対立が続いた結果SSKがつぶれてくれた方が、SSKが請けていた仕事が回ってくる分自分達のプラスになる」との思惑から労組側支援に回ったとも指摘している。 リストラや給与カット・ボーナス凍結の一方で、坪内は個人で従業員向けの低利融資を行うなど(当初は無利子融資も検討していたが、税務処理上贈与とみなされる可能性があるため、最終的に低利融資となった)、それなりの生活支援策も用意していた。 という一面もあり、坪内を一方的に批判することはできないという意見も多い。何はともあれ、一企業に支えられた地域経済の脆弱性が露となった事件であった。 その後1984年(昭和59年)には復配を果たすなど、来島グループ傘下で経営再建を果たしたSSKだったが、1986年(昭和61年)からの円高不況で来島どっくグループ本体も経営不振に陥り、SSKは同グループを離脱した。
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