条約の詳細
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/31 04:39 UTC 版)
「アダムズ=オニス条約」の記事における「条約の詳細」の解説
条約は1819年2月22日、ワシントンでアダムズとオニスにより署名された。批准は、米国が南米において勃発している革命に対して外交的に助力してくれることを長引かせることを目的としてスペインが批准せず、2年遅れた。米国上院は条約署名直後に全会一致で批准していたが、スペインが時間稼ぎを行ったので、改めてもう一度批准をする必要があり、この時は反対者が出た。ヘンリー・クレイをはじめとする西部のスポークスマンらは、スペインに対してテキサスも諦めさせるべきであると主張したが上院で否決された。1821年の2月19日に2度目の批准が可決され、その3日後の2月22日に批准書が交換され正式に条約が交付された。署名から2年経過していた。 東フロリダの譲渡、西フロリダのうち米国が占領し紛争となっている部分の放棄、スペイン領メキシコとの境界線の画定によるテキサスがメキシコ領であることの明確化により、ルイジアナ購入の際に不明瞭のままにされた国境の画定により、米国の膨張政策の初期段階は終わった。 米国はスペインからのフロリダ割譲に対しては金銭の支払いをしていないが、当該地に居住する米国人によるスペイン政府に対する法的金銭要求を肩代わりする名目で最大500万ドルの支払いを行うことを約束した。1795年に米西間で結ばれたピンクニー条約は効力があり、スペイン産の物品をフロリダ港を通じて輸入する際には特恵的関税措置を受ける事ができた。 スペイン領フロリダ(1763年から1783年まで英領西フロリダおよび東フロリダ)は米国のものとなった。米国はテキサスのサビーン川西岸およびその他のスペイン領に対する領土主張を放棄した。 この条約は大まかには、米国がフロリダとルイジアナを得て、それ以西のテキサスからカリフォルニア領土をスペインが得たと言えるが、実際には詳細な国境線が画定された。新しい国境線はメキシコ湾からサビーン川、サビーン川と北緯32度線の交差点からはレッド川に達するまで直線で真北に、そこからはレッド川が西経100度線との交差点まで国境線となる。ここから西経100度線を直線で北上、アーカンザス川と交差する点からはアーカンザス川自体がその水源地まで国境で、そこから真北に北緯42度線にぶつかる点までは直線、さらにこの42度線を真西に直進し太平洋に至るものであった。条約締結時には、アーカンソー川の水源は北緯42度線付近であろうと考えられていたが実際には誰も知らなかった。1840年代になってジョン・C・フレモントが、水源地を北緯42度線より数百マイル南側だと特定したため、この水源地から真北に直線で結ぶ線を国境とした。このためこの国境線は非公式には「階段状境界線 (Step boundary)」と呼ばれる。
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