杉山城問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 04:09 UTC 版)
杉山城の築城を山内上杉氏によるものとする根拠は、次のとおりである。 遺物の型式及び様式が、 瀬戸美濃産陶器;古瀬戸後Ⅳ新段階〜大窯1段階(15世紀後半〜16世紀初頭)(藤澤1993,1996,2001など) 常滑甕10期;1450〜1500 明青花皿(染付皿B1類、15世紀後半〜16世紀初頭)(森田1982) 白磁皿C群(15世紀後半〜16世紀初頭)(小野1982) などいずれも15世紀後葉から16世紀前葉の様相を示す。 山内上杉氏に関連する遺跡(城など)から出土する体部が直線的に開く独特な器形のかわらけの出土。 16世紀中葉から後半の後北条氏時代の遺物が出土しない。 遺物が二次被熱を受けて、遺構の一部である焼けた壁土の破片や炭化物と共伴する状況で出土し、特に3号土坑から焼けた壁土とともに出土した常滑焼破片が周囲の遺構面の破片と接合する(同一個体)であることから遺構と遺物の同時性がうかがわれる。 さらに近年、『足利高基書状写』に「椙山之陣」と記されている事が判明し、この書状の原本が天文15年(1546年)の河越夜戦以前の史料であることは明白なことから、上記の調査成果とも合致する内容となっている。このような事情で遺物から見た場合には、杉山城の築城が後北条氏によるものである可能性は低くなった。 一部の縄張り研究者は、そもそも陶磁器のような商品は生産・流通・使用・廃棄まで相当にタイムラグがあり、しかも杉山城のような前線基地に最新の生活用品を持ち込むとは想定し難い。また、松山城のように歴史上明らかに戦国末期まで使用された城でも、発掘調査では16世紀中頃までの遺物しか出てこず、最新の生活物資を伴わないような城の使われ方が存在した可能性があることから、部分的な調査の出土遺物で年代を決めることに対し慎重な意見もある。時系列で見ても、戦国前期の相模・武蔵地域の城の縄張りは総じて単純で、杉山城のものに類似する城は無く、後北条氏の滝山城の虎口に類似していること及び曲輪から「コ」字もしくは「J」に張り出しをつくって、正面は土塁で固め、側面に出入り口を設けて防御を強化した「比企型虎口」の形成過程をたどると、15世紀末〜16世紀初頭の他の城との技術的相違が見られる。更に、「椙山之陣」と杉山城の構造は当時の陣のあり方にそぐわず、両者をイコールとは必ずしも言えない事から、後北条氏の築城の可能性を主張する。しかし、一方では縄張り研究者も縄張りから築城主体や築城年代を推し量る事はできない事を認めている。 なお、杉山城について、山内上杉家の家宰を務めた長尾顕忠の居城であったとする説がある。この説は当初竹井英文が主張し、竹井は後にこの説を撤回したが、一方で黒田基樹が再びこの説を主張している。
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