杉山巣雲
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杉山 巣雲(すぎやま そううん、1764年(明和元年) - 1833年(天保5年))は、江戸時代の教育者。諱は茂樹、字名は瑞翼、通称は亮蔵。
生涯
信濃国松本藩の棒術師範松井津太夫(所適)の次男として生まれる。新町学問所に学び、書を能くし、長じて武芸に通じた。天明8年(1788年)に致仕し、祖父の杉山茂平が松井氏の養嗣となる以前の「杉山」に復姓し、安曇郡池田宿の林泉寺(廃寺)に設けた池田学問所に招聘され、朱子学の読書、習字を教授した。
文政11年(1828年)、子弟の内山真弓らによって池田八幡神社に寿碑が建立され、碑文は頼山陽が揮毫している。
参考文献
- 「信濃人物誌」1963年
- 「長野県教育史 第7巻 史料編1」1972年
- 「池田小学校沿革史」
外部リンク
- 杉山巣雲と池田学問所 池田町
杉山巣雲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:53 UTC 版)
杉山巣雲(すぎやま そううん) は、池田学問所の初代先生として学問所の発展に尽力した。巣雲は、もと松本藩士で、藩棒術師範の祖父、学問好きの父の元で育てられ、8歳ごろから藩校(新町学問所)で学んだ。子供のころから、学問のなかでも特に書が得意であった。どっしりとした書きぶりで、穏やかである人柄がわかる書がのこる。教育への情熱はここで林鳳岡の弟子・多湖栢山の長男である多湖松江から受けた教育が大きく影響している。 巣雲は1833年(天保5年)に学問所の塾舎で亡くなる。享年71年であり、死を聞いた地域の人々は、皆涙を流して嘆き悲しんだと言われている。 しかし、巣雲の墓の石碑や1828年(文政11年)に建てられた池田八幡神社境内にある人の得をたたえる碑である寿碑は随分と傷つけられている。これは多くの人が学問ができるようになることを願って、粉にして飲んだりお守りにしたりしていたためである。そのため、寿碑が傷んでしまい、1969年(昭和44年)に、新しい寿碑が隣に建てられた。この地域で巣雲がとても尊敬されていたことが伺える。 巣雲が亡くなった後、1786年(天明6年)会染村で生まれた内山真弓が2代目の先生として学問所を引き継いだ。真弓は、14歳から池田学問所で巣雲のもとで学んだ。
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