杉山巣雲とは? わかりやすく解説

杉山巣雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/17 22:21 UTC 版)

杉山巣雲の銅像(長野県北安曇郡池田町、あづみ野池田クラフトパーク)

杉山 巣雲(すぎやま そううん、1764年明和元年) - 1833年天保5年))は、江戸時代の教育者。は茂樹、字名は瑞翼、通称は亮蔵。

生涯

信濃国松本藩棒術師範松井津太夫(所適)の次男として生まれる。新町学問所に学び、書を能くし、長じて武芸に通じた。天明8年(1788年)に致仕し、祖父の杉山茂平が松井氏の養嗣となる以前の「杉山」に復姓し、安曇郡池田宿の林泉寺(廃寺)に設けた池田学問所に招聘され、朱子学の読書、習字を教授した。

文政11年(1828年)、子弟の内山真弓らによって池田八幡神社に寿碑が建立され、碑文は頼山陽が揮毫している。

参考文献

  • 「信濃人物誌」1963年
  • 「長野県教育史 第7巻 史料編1」1972年
  • 「池田小学校沿革史」

外部リンク


杉山巣雲

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 04:53 UTC 版)

池田学問所」の記事における「杉山巣雲」の解説

杉山巣雲(すぎやま そううん) は、池田学問所初代先生として学問所発展尽力した。巣は、もと松本藩士で、藩棒術師範祖父学問好きの父の元で育てられ8歳ごろから藩校新町学問所)で学んだ子供のころから、学問なかでも特に書が得意であったどっしりとした書きぶりで、穏やかである人柄がわかる書がのこる。教育への情熱はここで林鳳岡弟子多湖栢山長男である多湖松江から受けた教育大きく影響している。 巣1833年天保5年)に学問所塾舎亡くなる。享年71年であり、死を聞いた地域人々は、皆涙を流して嘆き悲しんだと言われている。 しかし、巣の墓の石碑1828年文政11年)に建てられ池田八幡神社境内にある人の得をたたえる碑である寿碑は随分と傷つけられている。これは多くの人が学問ができるようになることを願って、粉にして飲んだお守りにしたりしていたためである。そのため、寿碑が傷んでしまい、1969年昭和44年)に、新しい寿碑が隣に建てられた。この地域で巣がとても尊敬されていたことが伺える。 巣亡くなった後、1786年天明6年会染村生まれた内山真弓2代目先生として学問所引き継いだ真弓は、14歳から池学問所で巣のもとで学んだ

※この「杉山巣雲」の解説は、「池田学問所」の解説の一部です。
「杉山巣雲」を含む「池田学問所」の記事については、「池田学問所」の概要を参照ください。

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