旧本多忠次邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/20 23:16 UTC 版)
旧本多忠次邸 | |
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情報 | |
設計者 | 白鳳社建築工務所 |
構造形式 | 木造、瓦葺[1] |
建築面積 | 305 m² [1] |
階数 | 2階建[1] |
竣工 | 1932年頃 2012年1月31日(移築) |
開館開所 | 2012年7月6日 |
所在地 | 〒444-0011 愛知県岡崎市欠町字足延40-1 |
座標 | 北緯34度57分10.0秒 東経137度11分25.3秒 / 北緯34.952778度 東経137.190361度座標: 北緯34度57分10.0秒 東経137度11分25.3秒 / 北緯34.952778度 東経137.190361度 |
文化財 | 登録有形文化財 |
指定・登録等日 | 2014年10月7日[1] |
旧本多忠次邸(きゅうほんだただつぐてい)は、愛知県岡崎市欠町字足延40-1にある建築物。スパニッシュ様式を基調とした邸宅であり、東公園の一角にある。国の登録有形文化財に登録されており、文化財登録名称は「旧本多家住宅主屋」[1]。
歴史
竣工と居住

本多家は岡崎藩主を務めた家である。1869年(明治2年)の版籍奉還後、本多忠直は岡崎藩知事に任命されたが、1871年(明治4年)廃藩置県によって岡崎県が設置されると東京での居住を命じられた[2]。その後は子爵の本多忠敬が本多家の家督を継ぐと、忠敬は岡崎城跡を岡崎市に寄付して岡崎公園の整備に尽力するなどした[2]。1896年(明治29年)7月、忠敬の次男として東京市本郷区駒込(現・文京区)に本多忠次が生まれた[3]。なお、本多家の家督を継いだのは忠次の兄の本多忠昭である[2]。
忠次は東京帝国大学文科大学哲学科を卒業し、駒込の本多家本家に居住していたが、本家が移転することによって独立の必要性が生じた[3]。忠次は二子玉川、丸子、柿木坂、上野毛、下野毛、奥沢などで屋敷の敷地を物色し[4]、1931年(昭和6年)には東京府荏原郡駒沢町(現・東京都世田谷区野沢3丁目、座標)に居を構えることを決定した[3]。この場所は環七通りの沿線であり、周辺には植木業者の植木場などがあったが、駒沢町野沢土地区画整理組合によって土地区画整理が行われていた[4]。建物の竣工は1932年(昭和7年)頃とされ、庭園も含めた屋敷全体の整備が完了したのは1933年(昭和8年)とされる[3]。とはいえ、忠次がこの屋敷に住み始めたのは1940年(昭和15年)10月12日のことだった[5]。忠次は太平洋戦争勃発後も疎開せずに世田谷に住み続け、屋敷は1945年(昭和20年)3月や5月の東京大空襲の戦災も免れているが、7月4日には軍需省と賃貸契約を結んで屋敷を離れた[5]。
戦後の1946年(昭和21年)5月には屋敷が進駐軍に接収され、ダグラス・マッカーサー連合国軍最高司令官の顧問弁護士であるカーペンター夫妻の住居となった[3]。1952年(昭和27年)7月には屋敷が忠次に返還され、忠次は1999年(平成11年)に死去するまでこの屋敷に住み続けた[3]。1964年東京オリンピックに合わせた道路工事によって敷地の一部を手放し[3]、昭和40年代後半には敷地の南東部に池泉回遊式庭園を建設した[5]。テレビや映画のロケ地となることもあり、岡田真澄が主演した映画(作品名不詳)、『仮面ライダー』、『太陽にほえろ!』、『魔女っ子メグちゃん』などの撮影が行われている[5]。1975年(昭和50年)頃にもやはり敷地の一部を手放しており、この際には屋敷の正門が南側から北側に移された[5]。バブル景気時代には敷地の買収の申し出もあったが、忠次は敷地と建物を保持し続けた[5]。
移築と一般公開

1999年(平成11年)8月には本多忠次が死去し、約7億円の相続税の支払い問題が発生した[6]。2000年(平成12年)2月14日、世田谷区教育委員会の文化財担当者は、本多家とのゆかりの深い岡崎市に移築復元を打診すると[7][8]、同年4月4日には中根鎭夫岡崎市長ならびに市職員ら13名が現地を視察した[6]。5月19日、所有者である本多家から寄付の申出があり、岡崎市との協議が成立した。邸宅は5月30日に解体され、建築部材は7月にかけて4トントラック12回に分けて岡崎市へ搬入された[7][9]。
移送された部材は岡崎市によってしばらく保管されたが、2008年(平成20年)4月、屋敷と壁泉の一部を東公園の一角に移築することが決定した[7]。同年9月には飯田喜四郎ほかを委員とする岡崎市旧本多邸活用検討委員会が発足し、同年9月以後には活用について考える市民会議も開催された[7]。2009年度(平成21年度)には東公園で用地造成工事に着工し、2010年度(平成22年度)には復原建設工事に着工した[7]。
2012年(平成24年)1月31日に復原工事が完了し[10]、同年7月6日に一般公開が開始された[11][12]。2014年(平成26年)10月7日、「旧本多家住宅主屋」として国の登録有形文化財に登録された[1][13][14]。同年には愛知登文会が建造物の特別公開イベント(後のあいたて博)を初開催し、旧本多忠次邸など37か所の建物が公開された[15]。
建築


スパニッシュ様式を基調とし[10][16]、チューダー様式を加味した建築様式とされる[17]。本多忠次は設計を担う建築家や施工を担う工務店についても自ら選定している[17]。建築家としては中村與資平、保岡勝也、西村伊作、森谷延雄などを候補に挙げ、最終的には大谷木広が設立した白鳳社建築工務所を設計・施工者に選定した[17]。
1階
- 団欒室
- 食堂
- 衣装室
- 夫人室
- 日光室
- 配膳室
- 事務室(元応接室)
- 使者の間
- 下足室(元書生室)
- 給湯室(元台所)
- 倉庫1(元第二女中室)
- 倉庫2(元暖房・洗濯室)
- 湯殿
- 化粧室1
-
団欒室
-
日光室
-
湯殿
-
使者の間
-
階段
2階
- 客間
- 次の間
- 控室
- 書斎
- 寝室
- お茶室
- 浴室
- 化粧室2
- 納屋
- バルコニー
-
客間と次の間
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書斎
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寝室
-
お茶室
-
浴室
脚注
- ^ a b c d e f 旧本多家住宅主屋 文化遺産オンライン
- ^ a b c 『岡崎市旧本多忠次邸移築復元工事報告書』岡崎市教育委員会、2013年、36-37頁。
- ^ a b c d e f g 『岡崎市旧本多忠次邸移築復元工事報告書』岡崎市教育委員会、2013年、38頁。
- ^ a b 『岡崎市旧本多忠次邸移築復元工事報告書』岡崎市教育委員会、2013年、39-40頁。
- ^ a b c d e f 『岡崎市旧本多忠次邸移築復元工事報告書』岡崎市教育委員会、2013年、70-84頁。
- ^ a b “岡崎市議会 平成13年12月 定例会 12月05日-23号”. 岡崎市会議録検索システム. 2021年6月14日閲覧。
- ^ a b c d e 『岡崎市旧本多忠次邸移築復元工事報告書』岡崎市教育委員会、2013年、27-30頁。
- ^ “愛知登文会・文化財紹介【2015年総会】” (PDF). 愛知登文会. pp. 12-13. 2021年6月14日閲覧。
- ^ 福沢和義「みかわの名建築(1) 旧本多忠次邸(岡崎市欠町)」『中日新聞』2020年10月19日。2021年6月14日閲覧。
- ^ a b “旧本多忠次邸の復元について 旧本多忠次邸復元工事”. 丸ヨ建設工業. 2021年6月14日閲覧。
- ^ 横田沙貴「近代化遺産保存の意義 旧本多忠次邸開館から10周年」『東海愛知新聞』2022年1月5日。2022年1月6日閲覧。
- ^ 「岡崎に徳川四天王の末孫・本多忠次の邸宅復元 東京から移築」『岡崎経済新聞』2012年6月15日。2013年1月19日閲覧。
- ^ “旧本多家住宅主屋”. 国指定文化財等データベース. 2020年9月27日閲覧。
- ^ 「文化財を訪ねて 第2回 岡崎市 旧本多忠次邸」(PDF)『おかしん』、岡崎信用金庫、2017年7月、2021年6月14日閲覧。
- ^ 登録文化財特別公開事業(2014 年度) 愛知登文会
- ^ “旧本多忠次邸施設概要”. 岡崎市 (2014年5月31日). 2023年1月26日閲覧。
- ^ a b c 『岡崎市旧本多忠次邸移築復元工事報告書』岡崎市教育委員会、2013年、40-48頁。
参考文献
- 『岡崎市旧本多忠次邸』岡崎市教育委員会社会教育課、2013年
- 『岡崎市旧本多忠次邸移築復原工事報告書』岡崎市教育委員会、2013年
- 岡崎市教育委員会「旧本多忠次邸のステンドグラス及び家具修理報告」『岡崎市史研究』岡崎市教育委員会、34号、2014年
- 金田美世「旧本多忠次邸のステンドグラスについて 近代建築のステンドグラス」『岡崎市史研究』岡崎市教育委員会、34号、2014年
外部リンク
- 旧岡崎藩主の子孫が建てたスパニッシュ様式の建物を移築・復原 旧本多忠次邸(岡崎市) 愛知登文会(オンラインあいたて博)
旧本多忠次邸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 01:51 UTC 版)
2012年(平成24年)7月6日、オープン。沿革は下記のとおり。 子爵本多忠敬の次男、本多忠次は1896年(明治29年)7月、東京市本郷区(現・文京区)に生まれた。1932年(昭和7年)、東京府荏原郡駒沢町(現・東京都世田谷区野沢3丁目)にスパニッシュ様式を基調とした住宅を建てた。1999年(平成11年)8月、本多忠次が死去。これに伴い約7億円の相続税の支払い問題が発生した。2000年(平成12年)2月14日、世田谷区教育委員会の文化財担当者は、本多家とのゆかりの深い岡崎市に忠次の邸宅の移築復元を検討してもらえないかと打診。同年4月4日、中根鎭夫市長ならびに市職員ら13名は現地を視察。5月19日、所有者本多家から寄付の申出があり、協議が成立。邸宅は5月30日に解体され、建築部材は7月にかけて4トントラック12回に分けて岡崎市へ搬入された。移送された部材は市でしばらく保管され、2008年(平成20年)4月、邸宅と壁泉の一部を東公園に移築することが決定。2012年(平成24年)1月31日に復元工事が完了した。 2014年(平成26年)10月7日、国の登録有形文化財に登録された。
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