日活向島から大将軍へとは? わかりやすく解説

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日活向島から大将軍へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 17:35 UTC 版)

三枝源次郎」の記事における「日活向島から大将軍へ」の解説

1900年明治33年9月8日東京府豊多摩郡渋谷村、のちの東京市渋谷区渋谷3丁目8番地に当たる地に生まれる。 1921年大正10年3月東京物理学校旧制専門学校現在の東京理科大学)を卒業し同年5月日活向島撮影所監督部に入社する細山喜代松若山治鈴木謙作師事同僚助監督溝口健二とは連日酒杯傾け論じあう仲であった1923年大正12年8月10日公開され若山治監督の『男性意気』には、脚本家としてクレジットされている。同年9月1日起きた関東大震災によって同撮影所壊滅し現代劇部は日活京都撮影所移転し三枝は、そこでも脚本書き鈴木謙作監督作採用されている。1924年大正13年7月4日公開された『民族黎明』で監督としてデビューした1925年大正13年7月12日公開された『赫い夕陽に照されて』は、刃傷事件降板した溝口健二に代わって、三枝監督し仕上げた作品である。 日活取締役であった重直輔が1931年昭和6年)ころに設立した大日本天然色映画で、翌1932年昭和7年)、『奇跡生還』という、当時珍しいカラー映画監督している。1934年昭和9年8月22日公開されトーキー日本人なればこそ』を最後に京都去り東京大都映画移籍、ふたたびサイレント映画監督した1935年昭和10年) - 1941年昭和16年)の時期奈良県生駒郡伏見村現在の同県奈良市あやめ池北1丁目)に存在した全勝キネマ在籍していた記録がある。一方、『日本映画監督全集』(1976年誌上三枝の項目を執筆した岸松雄によれば三枝京都去った年の9月には、日活多摩川撮影所製作部入社し5年在籍ののち1939年昭和14年)に退社し1940年昭和15年1月には「朝日映画製作株式会社」に入社して翌年には同社映画部長・製作部長に就任した旨の記述があり、文化庁日本映画情報システムにも、『海国日本』などをはじめとする朝日映画製作朝日映画社)における1940年 - 1944年三枝のドキュメンタリー作品記載されている。

※この「日活向島から大将軍へ」の解説は、「三枝源次郎」の解説の一部です。
「日活向島から大将軍へ」を含む「三枝源次郎」の記事については、「三枝源次郎」の概要を参照ください。

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