日本近距離航空設立、運航再開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/02 04:32 UTC 版)
「紋別空港」の記事における「日本近距離航空設立、運航再開」の解説
事故をきっかけに空港管理体制や安全対策が改めて問われた。運輸省は横浜航空では現状の安全基準を受け入れることすら難しい状態であると判断し、離島や地方都市と拠点都市を結ぶ近距離輸送を専門とした航空会社の設立を要請した。これを受けて1974年(昭和49年)3月13日、日本航空(以下JALと表記)大手や小型機業界など航空会社や保険会社、北海道などの出資で日本近距離航空(現: エアーニッポン、以下ANKと表記)を設立。同年10月15日より丘珠 - 紋別線、稚内線などが事故以来約2年5箇月振りに再開した。旅客定員19名のDHC-6を使用した1日1往復の定期路線だが、所要時間は70分とセスナ206A就航時に逆戻りした。また、紋別市が行っていた空港管理が1973年(昭和48年)8月1日より北海道へ移管され、管理体制の強化が図られた。 再開年は10月31日まで運航された。1975年(昭和50年)と1976年(昭和51年)は5月から11月までの運航で、運航機材がDHC-6になり就航率は向上したものの、定員増加や運賃値上げの影響で利用率は40 %前後に低迷した。1977年(昭和52年)は前年の国鉄運賃大幅値上げによるいわゆる「国鉄離れ」の旅客を吸収し50 %台を回復した。これまで降雪期は運休としていたが、1978年(昭和53年)1月15日まで延長された。同年の運航開始も3月16日からに早められ、この年は就航以来最高の64.9 %を記録した。休止は1979年(昭和54年)1月16日から3月31日までを最後に、完全な通年運航となった。同年は65.1 %の利用率となり、1980年(昭和55年)5月から2往復の運航となった。しかし座席数増加や運賃値上げで利用率は下降した。1981年(昭和56年)は7月15日までは前年通りの運航であったが、7月16日より旅客定員64名のYS-11が就航した。所要時間は50分となったが、1往復に戻されたため利便性の低下は否めず、同年こそ45.3 %の利用率であったが1982年(昭和57年)からは40 %を確保するのも難しい状況だった。紋別市などは2往復化による利便性の向上を求めた。
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