日本詩への傾倒
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1921年(大正10年)に最初の日本語詩集『二重國籍者の詩』を刊行したのを皮切りに、詩集を次々と発表し、1925年(大正14年)には『芭蕉論』を刊行し、日本の歌や詩、浮世絵についての評論執筆が多くなる。1926年(大正15年)、詩話會の機関誌『日本詩人』5月号が「野口米次郎記念號」として刊行され50歳の誕生を祝賀される。1935年(昭和10年)からはアジア研究にも傾倒し始め、10月にインドの各州立大学での講演旅行のため、10月16日神戸を出帆する。上海では10月21日魯迅と会談。長くインドに滞在し、カルカッタ、ダージリン、タイガーヒル、ブダガヤ、アグラ、ボンベイ、アジャンタと移動。10月29日サンティニケタンのタゴール家泊。10月31日ガンジーと会見。1936年(昭和11年)1月4日詩人Sarojini Naiduと会う。ほかに、ラース・ビハーリー・ボースらと深く交わり、この頃から東アジアにおける日本の立場に対する理解を国際社会に求めた。2月7日コロンボ発、帰国。「ガンジーと語る」を『東方公論』に発表、さらに『印度は語る』を第一書房より刊行。1938年(昭和13年)『文藝春秋』11月号に「三度タゴールに與ふ」を発表。 1943年(昭和18年)5月25日、NHKより高村光太郎、佐藤惣之助、西条八十、尾崎喜八とともに「海と詩と音楽」を放送する。『藝術殿』『詩歌殿』『文藝殿』『想思殿』の一連の刊行業績により、1944年(昭和19年)帝國藝術院より、第二部(文芸)において第2回帝國藝術院賞を授与された。1945年(昭和20年)4月19日夜半の東京大空襲により東中野の自宅が全焼し、防空壕で一夜を明かし、すぐ茨城県結城郡豊岡村(現・常総市)へ疎開。1947年(昭和22年)に胃癌により豊岡で死去。茨城県豊岡で密葬されたのち、東中野の自宅焼跡でテントを張って、告別式が行われた。墓所は、神奈川県藤沢市常光寺。法名は天籟院澄誉杢文無窮居士。
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