日本詩への傾倒とは? わかりやすく解説

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日本詩への傾倒

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/05 07:53 UTC 版)

野口米次郎」の記事における「日本詩への傾倒」の解説

1921年大正10年)に最初日本語詩集二重國籍者の詩』を刊行したのを皮切りに詩集次々と発表し1925年大正14年)には『芭蕉論』を刊行し日本の歌や詩、浮世絵についての評論執筆多くなる1926年大正15年)、詩話會の機関誌日本詩人5月号が「野口米次郎記念號」として刊行され50歳の誕生祝賀される。1935年昭和10年)からはアジア研究にも傾倒し始め10月インド各州立大学での講演旅行のため、10月16日神戸出帆する上海では10月21日魯迅会談長くインド滞在しカルカッタダージリンタイガーヒルブダガヤアグラボンベイアジャンタ移動10月29日サンティニケタンのタゴール家泊。10月31日ガンジー会見1936年昭和11年1月4日詩人Sarojini Naiduと会う。ほかに、ラース・ビハーリー・ボースらと深く交わりこの頃から東アジアにおける日本の立場対す理解国際社会求めた2月7日コロンボ発、帰国。「ガンジーと語る」を『東方公論』に発表、さらに『印度は語る』を第一書房より刊行1938年昭和13年)『文藝春秋11月号に「三度タゴール與ふ」を発表1943年昭和18年5月25日NHKより高村光太郎佐藤惣之助西条八十尾崎喜八とともに「海と詩と音楽」を放送する。『藝術殿』『詩歌殿』『文藝殿』『想思殿』の一連の刊行業績により、1944年昭和19年帝國藝術院より、第二部文芸)において第2回帝國藝術院賞授与された。1945年昭和20年4月19日夜半東京大空襲により東中野自宅全焼し防空壕一夜明かし、すぐ茨城県結城郡豊岡村(現・常総市)へ疎開1947年昭和22年)に胃癌により豊岡死去茨城県豊岡密葬されたのち、東中野自宅焼跡テント張って告別式が行われた。墓所は、神奈川県藤沢市常光寺法名天籟院澄誉無窮居士

※この「日本詩への傾倒」の解説は、「野口米次郎」の解説の一部です。
「日本詩への傾倒」を含む「野口米次郎」の記事については、「野口米次郎」の概要を参照ください。

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