日本国憲法における上諭
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1946年(昭和21年)11月3日に公布され、1947年(昭和22年)5月3日に施行された日本国憲法には、上諭が付されている。これは、公式令第3条第1項が「帝國憲法ノ改正ハ上諭ヲ附シテ之ヲ公布ス」と定めていたことに基づく。 また、この上諭は、同条2項に「前項ノ上諭ニハ樞密顧問ノ諮詢及帝國憲法第七十三條ニ依ル帝國議會ノ議決ヲ經タル旨ヲ記載シ親署ノ後御璽ヲ鈐シ内閣總理大臣年月日ヲ記入シ他ノ國務各大臣ト俱ニ之ニ副署ス」と定められた通りの形式も整えられている。 日本国憲法 朕は、日本國民の總意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、樞密顧問の諮詢及び帝國憲法第七十三條による帝國議會の議決を經た帝國憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。 御名 御璽 昭和二十一年十一月三日 內閣總理大臣兼外務大臣 吉田茂 國務大臣 男爵 幣原喜重郎 司法大臣 木村篤太郎 内務大臣 大村淸一 文部大臣 田中耕太郎 農林大臣 和田博雄 國務大臣 齋藤隆夫 逓信大臣 一松定吉 商工大臣 星島二郎 厚生大臣 河合良成 國務大臣 植原悦二郎 運輸大臣 平塚常次郎 大蔵大臣 石橋湛山 國務大臣 金森徳次郎 國務大臣 膳桂之助 上諭の内容は、日本国憲法の制定が大日本帝国憲法第73条の改正手続に従って行われたことを示している。 ここで講学上問題となるのは、大日本帝国憲法と日本国憲法の間に法的連続性があるか否かである。上諭の内容をそのまま読めば、日本国憲法は大日本帝国憲法を改正したのであるから、両者の間には連続性があることになる。ただ、その本文の内容を見ると、日本国憲法は前文・第1条で国民に主権があることを定めるのに対して、大日本帝国憲法では主権が天皇にあると解されていた。ここで、憲法の改正には限界がないとする見解(憲法改正無限界説)をとれば、依然として大日本帝国憲法と日本国憲法との間には法的連続性があると解することができる。しかし、憲法の改正には一定の限界があり、主権の所在の異動は改正の限界を超えるとする見解(憲法改正限界説)によれば、大日本帝国憲法と日本国憲法との間には法的連続性がないと解される。 そこで、憲法改正限界説に立って、主権の異動と上諭の内容を整合的に説明する理論として、八月革命説が唱えられた。八月革命説とは、1945年(昭和20年)8月14日に日本政府がポツダム宣言を受諾したことを法的な革命と擬制し、その上で、便宜的に上諭にある通り大日本帝国憲法の手続に従って憲法改正したとするもので、大日本帝国憲法と日本国憲法の間に法的連続性はないとする見解である。 なお、日本国憲法に付された上諭は、大日本帝国憲法に付された上諭と異なり、単なる裁可・公布文であり、憲法の一部を構成しない。
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