日本原電からの申し入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 23:16 UTC 版)
「福島第一原子力発電所6号機の建設」の記事における「日本原電からの申し入れ」の解説
なお、BWR-4にも110万KWのタイプはラインナップされており、日本国外ではブラウンズフェリー発電所などで採用例があり、しかもその圧力容器はIHIが製作したものだった。ただし、実際には6号機にBWR-4ではなくBWR-5が導入されている。この背景には、同時期に先行して同型炉を導入した日本原電とも関係がある。その事情は次のようなものであった。 そもそも、日本原電は設立の際の事業目論見書に英米から2機を輸入して実用化し、企業化の先駆的役割を果たす旨が記載されていたため、電気情報社社長永塚利一のように、敦賀1号機で使命を終えるものと捉えている向きもあった。しかし、『電気情報』1971年10月号で永塚と対談した当時の社長白澤富一郎は、軽水炉が技術的に発展途上であることを根拠に「3号炉」の原子炉導入を定款に沿う内容であると正当化して見せている。その際、3機目の新規性として挙げられたのが100万kW級のBWRという点であった。白澤は他の候補として高温ガス炉や高速炉も挙げており、別の対談で当初は高温ガス炉が有力な「3号炉」候補だったとも述べている。しかし、これらは「今の段階では研究開発の域を出ないのが実情」として導入候補から除外された。 こうして、白澤は3機目の候補としてPWRとBWRを挙げ、2機目がGE製のBWRであったことから、1971年初頭まではPWRになる見込みが強いと主張してきた。しかし、ここでも定款が別の意味で拘束した。つまり「初期段階における原子力発電の企業化のために、未輸入の機器について建設運転を行うという枠が嵌められている」という部分である。関西電力はこれに先立ち大飯発電所に120万kW級のPWRの導入を決定した。白澤は「PWR炉でこれ以上の大容量機はこの先五年や六年では世界で開発される見通しが立っていない」と判断したため、日本原電が100万kW級のPWRを導入する意義は消失したと見なした。一方で上記のように以前から100万kWへの大容量化を目標としてきた東京電力は、予想以上の需要の伸長に対応するため本発電所6号機から110万kWの導入を欲しており、それは白澤によれば50Hz地域で稼働している110万kWの同型機が世界に存在しなかったため「ある程度のリスクを犯して」実行することだった。白澤は1970年10月頃、木川田に日本原電の「3号炉」へBWR-5の導入することを申入れた。当初木川田はこの提案を承諾しようとはしなかったが、1971年3月末になり「地元、さらには九電力会社の了解を得るならば、建設しても良い」という承諾を得た。その後株主でもある電力各社と関係官庁の了解を半年余りの期間をかけて取り付け、8月の取締役会で建設を決定したという。このような経緯から東京電力が着手しようとしていた110万kW級もBWR-5となり、その導入はパイロット機関である日本原電のやや後発となった。「東京電力と一緒になって協力すれば、技術的にも実現できるであろう」というのが、白澤の見立てであった。 このような両社の動きに対して、通産省も国産化推進の観点より関心を示している。6号機を容量アップする意向という情報は6月末には出回っており、通産省はBWR-5が2機同時輸入となる件について検討し、国産化率を高めるのは3基目以降で実現するものとして、両社の導入を承認する方針を内定した。
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