日本における独自性
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 03:57 UTC 版)
日本における自由民権運動(The Liberty and Civil Right Movement)は、維新回天の元勲板垣退助が億兆安撫国威宣揚の御宸翰の意を拝し尊皇思想を基礎とし、明治天皇の五箇条の御誓文を柱として発展したもので、世界の自由主義思想とは潮流を異にする。特に御誓文の第一条「広く会議を興し万機公論に決すべし」の文言は重視され、国会開設および憲法制定の根拠とされた。 朕、幼弱を以て猝(には)かに大統を紹(つ)ぎ、爾来、何を以て万國に對立し、列祖に事へ奉らんかと朝夕恐懼に堪ざる也。竊(ひそか)に考(かんがふ)るに、中葉、朝政衰(おとろへ)てより、武家、権を専(もっぱ)らにし、表には朝廷を推尊して實は敬して是を遠け、億兆の父母として、絶て赤子の情を知ること能(あたは)ざるやふ計りなし、遂に億兆の君たるも、唯、名のみに成り果て、其が爲に今日、朝廷の尊重は古へに倍せしが如くして、朝威は倍(ますます)衰へ、上下相離ること霄壌(しょうじょう)の如し。かゝる形勢にて何を以て天下に君臨せんや。今般、朝政一新の時に膺(あた)り、天下億兆一人も其處を得ざる時は、皆、朕が罪なれば、今日の事、朕、躬(みづか)ら身骨を勞し、心志を苦(くるし)め、艱難(かんなん)の先に立(たち)、古(いにしへ)列祖の盡(つく)させ給ひし蹤(あと)を履(ふ)み、治蹟を勤めてこそ、始(はじめ)て天職を奉じて億兆の君たる所に背(そむ)かざるべし。往昔、列祖萬機を親(みづか)らし不臣のものあれば自(みづか)ら將として、これを征し玉(たま)ひ、朝廷の政(まつりごと)、總(すべ)て簡易にして如此(かくのごと)く尊重ならざるゆへ、君臣相親(あひしたし)みて上下相愛し、德澤天下に洽(あまね)く、國威海外に輝きしなり。然るに近來宇内大(おほい)に開け、各國四方に相雄飛するの時に當(あた)り、獨(ひとり)我邦(わがくに)のみ世界の形勢にうとく、旧習を固守し、一新の効をはからづ、朕、徒(いたづ)らに九重中に安居(あんきょ)し、一日の安きを偸(ぬす)み、百年の憂(うれひ)を忘(わする)る時は、遂に各國の凌侮(あなどり)を受け、上は列聖を辱しめ奉り、下は億兆を苦めんことを恐る。故に朕こゝに百官諸侯と廣く相誓ひ、列祖の御偉業を繼述し、一身の艱難辛苦を問(とは)ず、親(みづか)ら四方を經營し、汝、億兆を安撫し、遂には万里の波涛を拓開し、國威を四方に宣布し、天下を富岳の安きに置(おか)んことを欲して、汝、億兆旧來の陋習に慣れ、尊重のみを朝廷の事となし、神州の危急をしらず、朕一(ひと)たび足を擧(あげ)れば非常に驚き、種々(さまざま)の疑惑を生じ、萬口紛紜(ばんこうふんうん)として、朕(ちん)が志をなさゞらしむ時は、是、朕をして君たる道を失はしむるのみならづ、從て列祖の天下を失はしむる也。汝、億兆能々(よくよく)朕が志を躰認(たいにん)し、相率(あいひきゐ)て私見を去り、公義を採(と)り、朕が業を助(たすけ)て神州を保全し、列祖の神靈を慰し奉らしめは生前の幸甚ならん。 — 『億兆安撫國威宣揚の(明治天皇)御宸翰』 自由民権家が例外なく尊皇家であったのは、その主導者である板垣退助の影響が大きい。板垣は「君主」は「民」を本とするので「君主主義」と「民本主義」は対立せず同一不可分であると説いた。これらの論旨の説明には「天賦人権説」がしばしば用いられている。東北地方では河野広中、北陸では杉田定一、九州では頭山満らが活躍したが、初期において自由民権運動に参加した者は、いずれも板垣の薫陶を受けたものから派生している。世界の自由主義思想は、キリスト教神学の聖書解釈や個人主義などを伴って発展したものが多い中で、日本の自由主義は愛国主義(Patriotism)と密接に結びついており、単純にリベラリズム(Liberalism)と翻訳出来ない特徴を有す。 内藤魯一(三河交親社) 片岡健吉(立志社) 杉田定一(自郷学社) 河野広中(三師社) 頭山満(玄洋社)
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