日本におけるムー大陸伝説
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「ムー大陸」の記事における「日本におけるムー大陸伝説」の解説
日本でのムー大陸の紹介記事は1932年(昭和7年)8月7日の『サンデー毎日』の記事「失はれたMU(ミュウ)太平洋上秘密の扉を開く」(三好武二)をはじめ、1938年(昭和13年)7月の『神日本』2巻7号(神之日本社)の「陥没大陸ムー国」など多数紹介されていた。現在ではその名が冠された雑誌『ムー』の誌名でも知られる。 出口王仁三郎は、チャーチワードが『失われたムー大陸』(1926年、1931年)を発表する4年前の1922年(大正11年)に、『霊界物語』第9巻の総説歌で「太平洋の真中に 縦が二千と七百浬 横が三千一百浬 黄泉(よもつ)の島や」と書いて、太平洋に巨大な大陸があったと述べている(2,700海里=約5,000キロメートル、3,100海里=約5,700キロメートル)。チャーチワードは1931年の著作の中で、日本人はムー大陸住民の支配層だった白人の子孫であり、その血をかなり純粋に維持していると述べ、日本とムー大陸に接点があるとに記している。1932年(昭和7年)に大阪毎日新聞でチャーチワードのムー大陸説が報道されると、ムー大陸とは霊界物語の黄泉島(よもつじま)のことである、と述べている。ムー大陸が沈没したことも、霊界物語第12巻第27章で書いている。 古史古伝の竹内文書を紹介した1940年(昭和15年)10月刊行の『天国棟梁天皇御系図宝ノ巻き前巻・後巻』(児玉天民 太古研究会本部)で葺不合朝(ウガヤフキアエズ王朝)69代神足別豊鋤天皇の代に、「ミヨイ」と「タミアラ」という大陸(というよりも島)が陥没したとし、その世界地図が記載されている(1934年(昭和9年)5月の『大日本神皇記』(皇国日報社)では4代天之御中主神身光天皇と35代の千足媛不合10代天日身光萬國棟梁天皇の時とする。ただし「ミヨイ」や「タミアラ」の名称はない)。竹内文書では、これらの島では五色人(白人・黒人・赤人・青人・黄人)と王族の黄金人が暮らしていたが、天変地異で島が沈んだために天の岩船で日本など太平洋の沿岸域に避難したとする。「ノアの洪水」に代表される世界の大洪水は、このときの「ミヨイ」と「タミアラ」の水没の影響としている。なお、この竹内文書自体が明治から大正にかけて竹内巨麿によって創作された偽書と認識されている。 チャーチワードの論は、戦時下において、日本の起源を世界的な出来事と位置づけたいと考える一部の急進的な愛国者の間で支持された。仲小路彰や藤沢親雄、仲木貞一などによって、天皇家はムーの子孫であり、日本人こそムーの正統であるという主張がなされ、日本の天皇こそが世界における正統な支配者であるということ、また、当時の日本が委任統治していたミクロネシアなどの南洋支配の正統性を裏付ける根拠の一つとされたが、国が教育する天皇像や皇国史観から大きく逸脱しているため、同じ右翼系論壇からも批判され次第に消滅していった。
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