日光街道の整備
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日光街道は江戸時代に徳川幕府(江戸幕府)の政策として整備された五街道のひとつで、1636年(寛永13年)江戸 - 下野国日光間に開通した。江戸から徳川家康を祀る日光山に至る主要道路として東海道に次いで整備された。 もともと日本橋から宇都宮城(宇都宮宿)までの区間には古道奥州道が通り、その北部区間の宇都宮城下から鉢石宿間にも古道日光街道が通っていたが、宇都宮 - 日光間にはその東側に新たにこれと並行する道が設置された。 日光街道の敷設の目的として、歴代徳川将軍の東照大権現への参拝、すなわち日光東照宮への参詣と云われているが、もともと五街道を計画したのは徳川家康本人であり、その際に日光山の参詣を目的とする街道を徳川幕府における政策上の重要路線としたが、徳川幕府の将軍家が日光参詣する折には、江戸城下の本郷追分から幸手宿までの日光御成道を通るのが通例であり、幸手宿から小山宿まで日光街道、小山宿以北は日光街道だけでなく、壬生通りおよび日光例幣使街道を経て日光へ至る経路も併せて用いられている。江戸から下野国を経て奥州方面に至る物流の動脈路線として計画、整備されたものであることが容易に推察される。
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日光街道の整備
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徳次郎宿は、はじめは上徳次郎宿のみであったが、上徳次郎宿、中徳次郎宿、下徳次郎宿の3宿から成る宿場町で、これらに古道旧日光街道沿いの門前村、田中村、西根村を加え徳次郎六郷と呼ばれていた。高札場は中徳次郎宿にあった。はじめ宇都宮藩であったが、嘉永四年(1851年)より代官領となった。 朝鮮通信使は日光社参に3度訪れ、江戸出発から4日目の昼食を徳次郎宿で摂るのが恒例となっていた。帰りは今市宿から徳次郎を通過して宇都宮宿で昼食を摂り、小山宿に泊まる強行軍が慣例であったため、徳次郎で昼食を摂ったのは最後の1回(明暦元年=1655年)だけであった。朝鮮通信使は本隊が200 - 300人ほどで、日本側の警護・案内・接待などの随行員を加えると1,000人超の大行列であった。琉球使節も3度、日光社参に訪れているが、行程の記録は残っていない。ただし江戸-日光間往復に要した日数が9日であったことが分かっており、朝鮮通信使と同様の行程であったと推定される。
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