旅の一生とは? わかりやすく解説

旅の一生

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 17:44 UTC 版)

ヴァスィリー・エロシェンコ」の記事における「旅の一生」の解説

現在のロシア連邦ベルゴロド州オブホーフカ出身エロシェンコ麻疹により4歳失明9歳時にモスクワ行き盲学校入った15歳のころからエスペラントを学ぶ。1908年から1910年の間にエスペランティストになった推定される1912年にはイギリス盲学校最初の旅をした。その後世界各地エスペラント助け借りて旅した1914年には、日本では視覚障害者マッサージ(あんま)により自立しているとのこと聞いて来日し東京盲学校現在の筑波大学附属視覚特別支援学校)で学んだ日本では盲学校生の間にエスペラント広めた。 後にシャム現在のタイ王国)に渡り、その地に盲学校設立した。しかし、シャムでは盲学校が必要とされていない感じる。ビルマ現在のミャンマー)へ行き、モルメイン(現・モーラミャイン)という町でしばらく盲学校教師をする。さらにインド渡ったが、ロシア革命の影響ロシア人厳しく扱われロシアボルシェヴィキとして国外追放された。1919年の夏に上海経由して再び日本へと逃がれた。日本語もよくできたので、日本語児童文学作品著し日本進歩的な文学者の間で知名度あがった中村屋秋田雨雀江口渙神近市子多く文化人交流し、その一人だった洋画家中村彝は「エロシェンコ氏の像」を描いたこの間に、恩義のある中村屋母国仕込みボルシチレシピ教え1927年喫茶開店の折には、ボルシチ人気メニューとして食通迎えられているほか、店員制服として彼の着用したルバシカ採用されている。1921年5月1日メーデー日本社会主義者会合への参加理由逮捕され国外追放となり、敦賀からウラジオストク送られた。そこからハルビン上海北京移動し魯迅などの知己得て1922年には北京大学ロシア文学について講演した女子師範学校講演したりした。 その後モスクワ行き8年ぶりに家族再会する。そして、トルクメン共和国盲児寄宿学校モスクワ盲学校などで盲人教育関係仕事をする晩年生まれ故郷帰り1952年62歳で亡くなったエスペランティストであるとともに帰国者という当局からは危険視される存在だったにもかかわらず障害者であったためか大粛清などの弾圧を受けることはなかった。

※この「旅の一生」の解説は、「ヴァスィリー・エロシェンコ」の解説の一部です。
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