方針転換と政権復帰(1999-2008)
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「同盟 (イタリア)」の記事における「方針転換と政権復帰(1999-2008)」の解説
ボッシは焦りから右派連合に対する和解すら模索し、かつて党機関紙で「ベルルスコーニはマフィア」と罵倒して政治問題となったにも関わらず、かつて裏切ったベルルスコーニの政党連合「自由の家」に再び加わって総選挙を戦う選択をした。2001年の総選挙で北部同盟は穏健派・強硬派の双方から愛想を尽かされ、上院得票率に至っては3.9%にまで急落して大幅に議席を減らした。同年のフォルツァ・イタリア党が29.4%、国民同盟が12.0%を獲得した事を考えれば、右派連合で大きく存在感を失ってしまった。ボッシが脳卒中により危篤状態に陥ると、ボッシの指導力に依存していた同盟の崩壊を噂する声は決して少なくなかった。だが結果的に同盟はボッシ不在中も分裂することなく、政権の一角に加わり続けた。連立内では極右である国民同盟と対抗して、フォルツァ・イタリアと連合する姿勢を見せ、ベルルスコーニも与党第2党である国民同盟への牽制としてこれを活用した。 元より北部同盟は北部経済を北部住民だけで分配し、北部の労働者の職を守ることを行動原理としてきた。ゆえに、北部経済の負担となる南部(あるいはその経済)への攻撃を主張していたのだが、近年では南部への補助金よりも外国人移民が安価な労働力として雇用されることの方が北部の人間にとって深刻な労働問題となりつつある。この流れから、北部同盟党もその批判の矛先を次第に南部経済から移民へと変え始めている。党首ボッシのサッカー・フランス代表に対する暴言(「黒人、イスラム教徒、共産主義者のチームに勝った」)を初めとして、移民排斥に関する発言が取りざたされることも増加し、2002年7月にはEU圏外からの移民に指紋押捺を課す「移民対策法」を成立させている。 上述した「南部経済への批判」から「外国人移民への排斥」へと軸を移し始めた北部同盟は、ボッシの復帰も相まって、2008年の総選挙において大幅に議席数を増やす大躍進を見せ、パダーニア事件以来低迷が続いていた党勢を立て直した。これまでの低迷の原因は(その成立の経緯からすれば当然ではあるが)支持が北部の、それも一部の保守派にのみに限られていた点にあった。独立を明確に放棄した上での確実な分権政策や、相変わらず続く経済不安・政情不安によって一定の支持者は確保していたものの、頭打ちになっている感は否めなかった。 だがこの選挙では、労働問題に熱心ながらも人権問題から移民対策には弱腰の左派政党を見限った北部在住の南部出身者の支持を集め、ボッシも「レガ・ノルドは全イタリア人労働者の党である」と演説するなど、南部出身者への結束を促す主張を行っていた。これまで北部同盟にとって完全なアウェーであった南部出身の党員も増加しており、従来の地域政党から脱皮し、かつてボッシが進めていた「イタリア全土の連邦主義者を統括する政党」に変貌しつつある。父が南部出身者である北部同盟のエマヌエーラ・ムネラート議員は、南部での躍進について「(我々は)昔の北部同盟ではない」と語っている。北部同盟という名から受けるイメージと実際の政治活動に差異が生じ始めており、「イタリア人民党」という表現が相応しくなりつつある。ボッシ自身、同郷でもあるリソルジメント期の政治家カルロ・カッターネオの後継者を自負する行動をしばしば行っている。
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