方針転換から廃刊へ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/14 14:39 UTC 版)
1889年(明治22年)12月発行の第31編までを刊行したのち、1890年(明治23年)1月、『日本之教学』を吸収合併し、号数を第2巻第1号と改めた。これとともに講演筆記、他誌からの許諾つき転載、独自の論文掲載へと方針を転換する。ただしその後も、『国家学会雑誌』第83号(1894年1月号)に掲載された近衛篤麿の講演録「華族論」を、文体を変えて同年2月号・3月号(第6巻第2号・第3号)に転載し、無断転載として提訴されるという事件を起こしている。この事件は、博文館側が非を認めて謝罪文を掲載し、提訴取り下げとなった。 方針転換後は低迷を続け、毎年のように判型や内容構成の変更を続けた。1893年(明治26年)12月末、『日本教育雑誌』を廃刊し『日本大家論集』に統合。1894年(明治27年)からは「政談」「時事」欄を新設した。1895年(明治28年)1月創刊の『太陽』に吸収合併される形で廃刊となった。 なお1893年4月、版権条例に代わり版権法が公布され、すべての新聞・雑誌の版権取得が可能になるとともに、新聞・雑誌記事を2年以内に無断転載ないし無断出版することが禁止された。これにより無断転載雑誌は完全に違法となった。
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