新聞人
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この頃、戯作本は新聞に取って替わられるようになり、1873年に横浜に移って、神奈川県庁に月給二十円で勤める。売薬業も続け、妻には新聞縦覧所を経営させていた。並行して『横浜毎日新聞』に寄稿していたが、1874年に県庁を辞めて横浜毎日社員の雑報記者となり、翌年に『読売新聞』や『平仮名絵入新聞』と同じように庶民向けの新聞として、自ら『仮名読新聞』を創刊。その後書肆磯部屋などを資本主として東京に移した。芸妓の内幕についての記事「猫々奇聞」「猫晒落誌」が喜ばれ、新聞で劇評を載せたことの嚆矢でもあった。平仮名中心の紙面は、後の口語体新聞の先駆けとなった。魯文の続き物は『花裳柳絮綻(はなごろもやなぎのいとのほころび)』『夜嵐於衣花仇夢(よあらしおきぬはなのあだゆめ)』などの実話小説となり、挿絵は、猩々亭暁斎を名乗った河鍋暁斎が描いていた。1879年に高橋お伝の死刑があり、魯文はこれを実話小説「高橋お伝のはなし」と題して『仮名読』に連載し、『高橋阿伝夜刃譚』として刊行した。次いで『いろは新聞』社長。1884年『今日新聞』創刊し主筆となる。 晩年は玩物居士と号して古仏像や仏具を蒐集して、骨董にも鑑識眼を持ち、またしばしば書画会を催して収入を得た。1890年に両国中村楼で文壇退隠の名納め会を開き、所蔵する書画、骨董、書翰等一千点を来会者に配った。その後は都々逸の選者をしたり、狂歌や民謡を作る弟子の集まり「いろは連」を戯作者など47人で組織。劇通で『歌舞伎新報』でも記事を執筆した。酒は少しで、甘い物も食べず、鰻、天麩羅、ももんじ屋の猪肉が好物。芸妓を「猫」、九代目市川団十郎を「団洲」、新史劇を「活歴」と呼ぶ名付け親でもある。 1894年に新富町の自宅で没。戒名は仏骨庵独魯草文居士、谷中の永久寺に葬られた。辞世の狂歌に「快く寝たらそのまま置き炬燵生けし炭団の灰となるまで」。門人に、二世花笠文京(渡辺義方)、採霞園柳香(広岡豊大郎)、胡蝶園若菜(若菜貞爾)、蘭省亭花時(三浦義方)、二世一筆庵可候(富田一郎)、野崎左文、斎藤緑雨がいて、当時の新聞小説家は大きくこの仮名垣派と、柳亭種彦の門流の柳亭派に二分されていた。野崎左文の書いた伝記「仮名反故」(『列伝体小説史』所収)がある。
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