新聞事業と国民政府参加
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1912年にヤンゴンで華僑合資により『仰光日報』を創刊。これが胡文虎による最初の新聞社起業である。[要出典] 1928年、シンガポールの華僑中学董事長(理事長)となる。同年11月には、豫陝甘賑災委員会委員にも任ぜられた[要出典]。 1929年1月[要出典]、シンガポールで『星洲日報(中国語版)』を創刊し、董事長に就任。同年には、私立大夏大学と国立中山大学にそれぞれ資金提供を行った[要出典]。 1930年(民国19年)秋、南京入りし、南京中央医院(中国語版)に資金提供して設備拡充に寄与している。翌年7月、汕頭で『星華日報』を創刊した。1932年(民国21年)1月、国民政府から国難会議会員に任ぜられ、ここから政治家としての活動も開始する。同年4月には、行政院僑務委員会委員に任ぜられた。[要出典] 1935年(民国24年)9月、廈門で『星光日報』を創刊、翌月には私立福建学院と廈門大学に資金提供を行っている。[要出典] 1937年夏、日中戦争の勃発を受けて、香港で華南戦災者救済金を募り、タイガーバームを中国軍用に大量に寄付。1937年12月には南洋客属総会主席に就任し、『星洲日報』を宣伝に活用し、自派の組織・ウィークリー・クラブを通じて募金活動を展開した。 1937年には弟・胡文豹のためにシンガポールのパシル・パンジャン(英語版)に兄弟の名前を取って「虎豹别墅(Haw Par Villa、ハウパーヴィラ)」と号した庭園を建造。同庭園は「虎標万金油花園(タイガーバームガーデン)」とも呼ばれ、無料で一般に開放された。 1938年(民国27年)6月、第1期国民参政会参政員に選出され(第2期でも連続選出)、8月、香港にて『星島日報』を創刊。同年、イギリス王ジョージ6世から大英帝国勲位を授与されている。[要出典]
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