鷹司繋子とは? わかりやすく解説

鷹司繋子

(新皇嘉門院 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/01 02:32 UTC 版)

鷹司 繋子
皇后 文政7年7月10日1824年8月4日
(追贈)
新皇嘉門院
院号宣下 文政6年4月6日1823年5月16日
(追贈)

誕生 寛政10年2月1日1798年3月17日
薨去 文政6年4月4日1823年5月14日
陵所 京都府紀伊郡伏見町
(現:京都府京都市伏見区
伏見桃山東陵
1914年(大正3年)埋葬
繋子
氏族 鷹司家
父親 鷹司政煕
母親 井上梅子
配偶者 仁孝天皇
子女 安仁親王
皇女
准后 文政3年12月26日1821年1月29日
身位 女御
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鷹司 繋子(たかつかさ つなこ、1798年3月17日寛政10年2月1日〉- 1823年5月14日文政6年4月4日〉)は、第120代天皇仁孝天皇女御。死後、皇后女院号は新皇嘉門院(しんこうかもんいん)。

系譜

関白鷹司政煕の娘。母は井上義胤の娘梅子。准母は権中納言豊岡尚資の娘斐子。異母兄の関白鷹司政通、同母妹の仁孝天皇女御鷹司祺子ほか、兄弟姉妹は多数。

略歴

文化10年(1813年)、16歳のとき、2歳年下の皇太子恵仁親王(のちの仁孝天皇)に入内。文化14年(1817年)、恵仁親王が即位すると、繋子は女御宣下を受ける。

文政3年(1820年)5月16日、繋子は第一皇子安仁親王を出産。同年12月26日、准三后となる。安仁親王は嫡妻腹の第一皇子であったが、翌年に夭折。

文政6年4月2日(1823年5月12日)に、繋子は再び出産。第一皇女が誕生するが、難産であったため、皇女は同日に、繋子も翌々日の4月4日に息を引き取った。享年26。後月輪陵に葬られた。

死から2日後の4月6日、繋子は女院号を贈られて新皇嘉門院と称され、さらに翌文政7年(1824年)には皇后位を追贈された。

また文政8年(1825年)には、繋子の同母妹の祺子が後添いとして仁孝天皇のもとに入内し、女御宣下を受けている。





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