文化・史跡・人物とは? わかりやすく解説

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文化・史跡・人物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 22:09 UTC 版)

呉服元町」の記事における「文化・史跡・人物」の解説

佐賀銀行呉服町支店 - 1925年大正14年竣工1934年昭和9年現在の外観改修正面に建つドーリア式の4本特徴。はじめ佐賀中央銀行呉服町支店、のち佐賀銀行呉服町支店願正寺 - 宝海山願正寺浄土真宗本願寺派。旧・高木町所在所蔵する2幅の「副島種臣の書」は佐賀市重要文化財指定されている。 称念寺 - 白山無量光院称念寺浄土宗。旧・元町所在佐賀藩儒学者武富圯南や草場佩川の墓がある。 上林文書 - 江戸期通じて佐賀藩鍋島家御用茶師に任ぜられ、明治初頭鍋島家招聘佐賀市移住した上林家(上林茶店)に伝わる。鍋島家主とする諸大名茶人らの書状、計1,056通。佐賀市重要文化財指定。 ひぜんえびす屋中溝菓子店) - 長崎街道を東からやってきて最初曲がり角にある。安永年間1772年 - 1781年)の創業伝わっており、佐賀市中心街創業が最も古い店とされる天保14年1843年)の古地図嘉永7年1854年)の竃帳に記載がある。また、店の前には古い石像道標が2本あり、1本には「こくらみち」「ながさきゑ」と街道行き先記され、もう一本には佐賀城方面指して「右おふくわんゑ」と記されている。なお、傍には幕末期恵比須像も鎮座し、「かど恵比須」と呼ばれている。 晒橋 - 南の裏十間川向かって流れ呉服町水路架かる長崎街道呉服町と、東の蓮池町の境(現在は一帯呉服元町)。名前の由来には諸説あり、この付近見せしめのために罪人縛り付け終日晒したからという説、この水路呉服の布を晒した乾かした)からという説などがある。後者付近を船が往来していたことから考えにくいとされ前者についても、すぐ近く長崎奉行泊まる本陣があることから重罪人の「晒し首ではなく軽犯罪者を晒したものであろう考えられている。なお、古く石造太鼓橋で、現在の石桁橋直された際に佐賀県内で初めてのアスファルト舗装が行われたほか、当時市営バス通った愛宕神社 - 関ヶ原の戦い前後に災火の多かったことから、鍋島家京都愛宕神社祈願行ったところ好転した。そのため信仰深め1600年慶長5年鍋島勝茂により京都から勧進したもの。家屋密集し古くは度々火災遭った周辺の町々で信仰されてきた。1949年昭和24年)から夏祭りの際に呉服町元町白山町などの協力御輿奉納している。楼門と、1710年宝永7年)の銘が付いた鳥居があるが、2016年熊本地震揺れでともに倒壊鳥居2017年再建された。

※この「文化・史跡・人物」の解説は、「呉服元町」の解説の一部です。
「文化・史跡・人物」を含む「呉服元町」の記事については、「呉服元町」の概要を参照ください。

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