願正寺
願正寺
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:28 UTC 版)
願正寺は城下の旧高木町・現呉服元町に所在する浄土真宗(西)本願寺派の寺院で、建立は1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの直後である。関ヶ原にて西軍に属した鍋島勝茂は、読みが外れ敗北、徳川家康の信を失う。この戦いに際して鍋島氏は、西本願寺の准如に勝茂の妻女や龍造寺高房の身辺保護を依頼していた。決戦の後勝茂は、小城郡晴気村(現小城市)出身の僧侶、円光寺元佶を通じて家康に陳謝し、立花宗茂の討伐を条件に赦免を受ける。そして帰国後間もなく、准如と西本願寺への恩に報いるため、願正寺を建立した。このとき、佐賀藩領内の浄土真宗寺院を全て西本願寺派に転派させるとともに、願正寺の配下に置く措置も執った。 西本願寺派内において肥前国の法頭職(拠点)に指定された願正寺は、慶長年間より、領内の浄土真宗門徒に対し「開山番料」という名の銀銭の徴収を開始した。集められた資金ははじめ願正寺から西本願寺に納められていたが、1721年(享保7年)までに願正寺が直接受納することが認められた。初めは納付率が高かったものの次第に滞納が増加し、明和年間には藩が末寺に対して番料の一時建て替えなどを指示、また大庄屋などの町役人・村役人を徴収にあたらせるなど、徴収に力を入れていた。 なお、願正寺の鐘楼は1696年(元禄9年)旧8月から1854年(安政元年)旧5月まで、城下の市民に広く時刻を知らせる時鐘として用いられた。1753年(宝暦3年)の記録によると、2人が昼夜交代で勤務し、日中の明六ツ(午前6時)から暮六ツ(午後6時)(いずれも不定時法)までの間鐘を撞いた。宝暦年間頃、鐘楼堂は傷んで建て替えが必要となり藩に願書を出している。のち、藩の許可を得て境内で万人講(富くじ)を開催して資金を集め、1768年(明和5年)8月にようやく建て替えられている。その後、鐘自体の劣化が進んで音の響きが悪くなり、1854年から時鐘は白山町の龍造寺八幡宮で撞くようになった。
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