呉服町・元町の起源
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佐賀城下では江戸時代初期、旧村中城(龍造寺城)の周囲に佐賀城が築かれ、その北方に城下町が造られた。 『鍋島勝茂公譜考補』によると、佐賀城は1602年(慶長7年)に一部で建設が始まり、1608年(慶長13年)に総普請、1609年(慶長14年)に天守閣が竣工し完成、藩主鍋島勝茂が本丸に移る。城下町は、1591年(天正19年)に城の北西に位置する佐賀郡蛎久(かきひさ)村(現・佐賀市鍋島町蛎久)から町が移され町人が移住したのが起源である。当初は六座町・伊勢屋町・中町・白山町の4町で、次第に拡大していった。本格的町割りは、1608年の総普請で家中屋敷と町小路が建設された際に行われたと考えられる。その後、1789年(寛政元年)や1803年(享和3年)の資料では城下町は33か町と記されており、呉服町や元町なども列記されている。 呉服元町で現在も営業を続ける中で最も創業が古い店として、安永年間(1772年 - 1781年)創業と伝わる店がある。江戸期の資料を見ると、寛政元年(1789年)幕府巡見報告には、呉服元町の前身の諸町として、蓮池町、上芦町、高木町、呉服町、元町、東魚町の6か町が記されている。 なお、呉服町および元町は、佐賀城下を通る長崎街道に面していた。城下東口の構口から入った場合、牛島町、柳町、蓮池町の次が呉服町で、ここまで道は真っ直ぐになっている。呉服町沿いの街道を北に曲がると元町で、その先を曲がると白山町、米屋町、中町(いずれも現白山2丁目)で、その西にも城下町が続く。 また、隣接する旧・高木町(現呉服元町)の願正寺が佐賀藩内の浄土真宗寺院の触頭(藩内の総本山)と定められ、明治 - 昭和期の民謡『蓮池節』に「願正寺参り」と唄われたように、多くの参詣者を集めた。その中には呉服を買い求めに立ち寄る人々がおり、呉服町の形成に影響した。 町別身分構成 - 嘉永7年(1854年)佐賀城下町竃帳町名侍手明鎚家来従士中小姓足軽職人被官仲間その他有姓者社人僧(山伏)座頭町人計呉服町0 0 2 4 2 25 1 11 1 2 0 1 0 29 78元町0 0 3 6 1 15 1 6 0 1 0 0 0 15 48東魚町0 0 2 1 3 7 0 10 1 0 0 0 0 14 38高木町(北)1 0 1 1 0 14 1 16 0 1 0 0 0 39 74高木町(南)0 1 3 2 1 23 0 16 0 2 0 1 0 44 93上芦町0 0 1 0 0 17 1 10 1 2 0 1 1 41 75蓮池町2 1 3 5 1 15 0 2 0 4 0 0 0 12 45城下計11 42 83 134 44 795 52 372 19 116 5 17 7 1293 2990
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