仮本陣(茶屋)と本陣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/24 06:28 UTC 版)
長崎街道において上使(幕府の役人)が宿泊しもてなす宿は「本陣」または「茶屋」が充てられ、藩が運営した。江戸の初期から中期まで、佐賀城下には本陣がなく、願正寺と称念寺が茶屋(仮本陣)として用いられ、長崎奉行なども宿泊した。2つの茶屋は、藩主の休憩所に用いられていたものが転用されたと考えられる。 江戸後期、寛政年間になると長崎奉行の宿泊の頻度が増え、本陣の設置が求められるようになる。そこで、呉服町で御用商人を営んでいた野口恵助が私邸を提供した。その際、野口は講を催して資金を調達した上で門や塀を新築し整えたため、1800年(寛政12年)藩は野口にかみしもを授与して表彰した。また、当初野口は本陣となった邸内に住んでいたが、藩が隣接する屋敷を買い上げてそこに移住、本陣は地主である野口から藩が借用しその地子銭(地税)は免除された。 1843年(天保14年)の『呉服町絵図』には、呉服町の東端、東方から裏十間川の晒橋を渡ってすぐの街道北側に本陣屋敷が見える。屋敷は柵と塀、濡門付きで描かれており、広さは1段1歩半、他に屋敷9歩とあり、安政年間に藩が買収したり献上したりして数度にわたり拡張したことも記されている。またこの頃著された『呉服町本陣見取図』には間取りが描かれており、「御書院」「寝所」「御次」「家老屯」「御膳所」「医師」「祐筆」などの部屋名を見ることができる。 現在、跡地はマンションになっており、塀の一角に説明版が設けられている。 また当時有数の広さを誇っていた本堂は、1883年(明治16年)8月の第1回から1886年(明治19年)1月の第7回まで、佐賀県議会の臨時議事堂として使用された。
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