敷設艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/21 16:04 UTC 版)
日露戦争以降、日本海軍は旧式装甲巡洋艦を敷設艦に改造して機雷戦に備え、同時に敷設艇として400トン級の「夏島」等を建造した。大正時代になると、巡洋艦改造大型艦と敷設艇の中間型として本艦(勝力)が開発・建造された。従来の敷設艇(マイン・ボート)の拡大型的な艦艇で、船体形状には商船の雰囲気が残る。速力13ノット。五号機雷100個、上甲板に120個、船艙内に360個を搭載とする文献もある。1917年(大正6年)の南洋巡航の際は上甲板に20個、1番から4番までの機雷庫に340個の計360個の五号機雷を搭載している。主砲は安式四〇口径一二センチ砲3門。配置は艦首に2門、艦尾上構上に1門だが、艦首の2門は日本海軍では珍しく並列に配置されていた。
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敷設艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 05:18 UTC 版)
1927年(昭和2年)10月発足の軍備制限委員会は軍縮条約下での軍備計画について翌1928年(昭和3年)9月に調査報告を提出し、その中で防備部隊用の艦艇は第1期艦齢を超過した艦艇を充てる方針を打ち出した。昭和7年度(1932年)に艦齢が満限になる(機雷)敷設艦常磐の代艦として昭和11年度(1936年)に艦齢が満限(16年)になる球磨・多摩を敷設艦に改造する計画が建てられた。魚雷兵装は全廃、速力を25ノットとし、大型機雷300個搭載し一度に100個の敷設能力とするものだった。1930年(昭和5年)締結のロンドン軍縮条約により計画は消滅した。
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