教団と法執行機関
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 07:19 UTC 版)
「サンフランシスコにおける人民寺院」の記事における「教団と法執行機関」の解説
この悲劇の直後に、教団の「暗殺部隊」の報道が表面化したため、不随となる恐怖が教団の敵を支配した。公務員、記者、元信者達は全て、そのような部隊の標的にされたと伝えられたグループに所属していた。サンフランシスコの当局者、法執行機関、メンタルヘルスの専門家は、暴力の蔓延を防ぐために措置を講じた。 元信者達は、すぐにバークレーの人権センターに赴き、警察の保護下に入り、生存者リストの知らされるのを待った。ポート・カイトゥマの滑走路で襲撃が行われた日の午後、ニュースが公表される前に、ライアンの補佐官であるウィリアム・ホルシンガーの妻は、夫婦のサンフランシスコの家で3回脅迫的な電話を受けた。この時の発信者は、「貴方の夫の収入源が彼の頭を吹き飛ばした。もっと気を付けるべきだったと彼に伝えなさい」と述べたと言われている。ホルシンガーの家族は、当初、警察の保護の下、パロアルトに避難した。ホルシンガーは、タホ湖に逃げた後、テキサス州ヒューストンの牧場に避難した。そして、彼らはサンフランシスコの自宅に戻ることは無かった。しかし、報道された「暗殺部隊」が実際に活動することは無かった。 険悪な勢力が教団と対立することについて、ジョーンズは何年にもわたって声明を出しており、ギアリー大通りの教団施設の信者達は政府軍によってこれらの勢力へ即刻の攻撃が行われることを期待していた。彼らは、屋外に配置されていたパトカーを移動させ、海岸で大規模な炎で焼却したという文書や記録を隠蔽したことに対して、「マッカーシズム時代」の反発を非常に恐れていたた。 一方で、ギアリー大通りの教団施設自体は、アメリカ合衆国全土のメディアと被害者の親族によって包囲された。教団は、タイム誌やニューズウィーク誌の表紙など多くのマスメディアにおいて、「死のカルト」(英語: Cult of Death)と表現された。犠牲者の親族たちは、教団の柵の外で何日間もキャンプを行い、柵の外から教団信者に対して声を上げていた。教団施設内部では、教団信者達も他の人と同じように精神的ショックを受けていた。おそらく、その日にジョーンズタウンに居たならば、100人から200人が毒物を飲んでいたと考えられる。彼らは、友人や親族が居なかっただけでなく、彼らの政治的・宗教的世界観の中心にいる人物もいなくなっていた。 州および地方の法執行機関と検察官が遂に人民寺院の調査を行った。保健福祉当局は、組織に対する苦情を適切に調査していないと感じていたものの、ティモシー・ストーンや他の元教団信者による刑事上の不正行為は発見されることは無かった。 ジョーンズタウンでの集団自殺から11年後、ギアリー大通りの教団施設に使われていた建物は、ロマ・プリータ地震で構造に大きな損害を受けた。建物の所有者が、構造を補強する補修を望まなかったため、この建物は取り壊され、1990年代後半にアメリカ合衆国郵便公社のオフィスが開設されるまで更地のままであった。
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