攻撃と戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 14:39 UTC 版)
「リチャード・モントゴメリー」の記事における「攻撃と戦死」の解説
詳細は「ケベックの戦い (1775年)」を参照 モントゴメリーは知らなかったことだが、彼はセントジョンズ砦とモントリオールでの勝利によって12月9日に少将に昇進していた。モントゴメリーがカールトンに降伏を決断させられなかった後、市の壁の外、数百ヤードの位置に数門の迫撃砲を据えさせた。市への砲撃は12月9日に始まったが、数日後には市の壁、守備隊および市民に対してそれほど重大な影響を与えていないことが分かった。モントゴメリーはこれを理解すると、市の壁にさらに近い場所アブラハム平原に別の砲台を据えることを命令した。ただしその場所は市からの砲撃に対してほとんど遮るものが無いところだった。12月15日、新しい砲台の準備が整い、モントゴメリーは1隊の者に休戦の旗を持たせ、市の降伏を求めさせたが、この動きも徒労だった。その後に市への砲撃を再開させたが、その効果はほとんど改善されなかった。新しい砲台はイギリス軍からのより効果的な砲撃を浴びた。モントゴメリーはその砲台の撤収を命じた。 市への砲撃の効果が無いことが分かったので、モントゴメリーは襲撃の作戦を立て始めた。川岸に近い市の一角であるローワータウン地区にモントゴメリーの部隊が攻撃を掛け、一方アーノルドの率いる部隊が市の壁の中でも岩の突起部にあって最も高く強固な場所であるケープ・ダイアモンド稜堡を攻撃して奪取することとされた。モントゴメリーはイギリス軍に自軍を見られないよう、嵐の夜に攻撃を掛けるべきだと考えた。12月27日、天候は嵐になり、兵士隊に攻撃の準備をするよう命令したが、嵐がまもなく弱くなったので攻撃の中止を伝えた。嵐を待つ間に作戦の変更を強いられた。それは大陸軍からの脱走者が防衛側に当初の作戦を伝えていたからだった。新しい作戦では、モントゴメリーの部隊が南からローワータウンに攻撃を掛け、アーノルド隊が北からローワータウンを攻撃するというものだった。市の壁を破った後は、モントゴメリー隊とアーノルド隊が市中で落ち合い、続いてアッパータウンを攻撃して抵抗勢力を崩壊させるというものだった。急襲の可能性を高めるために、2つの陽動行動も企画した。ジェイムズ・リビングストンの指揮する第1カナダ連隊の1隊が市の門の1つに火を放ち、別にジェイコブ・ブラウンの指揮する部隊がケープ・ダイアモンド稜堡の守備隊と戦って、攻撃開始の信号としてロケット弾を上げるというものだった。陽動行動を行っている間に大砲が市内に撃ち込まれることとされた。モントゴメリーはこの攻撃を躊躇していたが、アーノルド隊の兵士の徴兵期限が1月1日で切れることもあり、その貢献を失う方が心配だった。 12月30日夜に暴風雪が始まった。モントゴメリーが攻撃開始の命令を出し、大陸軍は所定の位置に動き始めた。午前4時、モントゴメリーはロケットの炎を見て、市の周りにいた兵士達をローワータウンの方向に移動させ始めた。このロケット弾は攻撃開始の合図だったが、イギリス軍にも攻撃が迫っていることを警告し、守備隊がその持ち場に殺到することになった。モントゴメリーは自らローワータウンへの行軍を先導し、市の壁の外にある険しく滑りやすい崖を下った。午前6時、モントゴメリー隊はローワータウンの外れにある柵に達し、それを切断する必要があった。2つ目の柵を切断した後、その開口部からモントゴメリーは先導隊を率いて入った。通りを下ったところに2階建ての小要塞があるのを認めたモントゴメリーはその方向に部隊を誘導し、剣を抜き、「さあ、私の良き兵士達、あなた達の将軍が続いてくることを求めている」と叫んで兵士隊を鼓舞した。大陸軍が約50ヤード (45 m) に近づいたとき、小要塞のイギリス軍(カナダ民兵30名と幾らかの水兵)大砲、マスケット銃およびぶどう弾による銃砲撃を開始した。モントゴメリーはぶどう弾を頭と両腿に受けて戦死した。このイギリス軍からの一斉射撃では、ジョン・マクファーソン大尉とジェイコブ・チーズマン大尉も戦死した。 モントゴメリーの戦死によって、その攻撃部隊は散り散りになった。ドナルド・キャンベル大佐は生き残り、幾らかは恐慌に捉われた撤退を命令した。モントゴメリー隊の支援が無く、アーノルド隊は当初の成功はあったものの、最後は潰えた。アーノルドは足を負傷し、ダニエル・モーガンを含め、多くの兵士が捕虜になった。
※この「攻撃と戦死」の解説は、「リチャード・モントゴメリー」の解説の一部です。
「攻撃と戦死」を含む「リチャード・モントゴメリー」の記事については、「リチャード・モントゴメリー」の概要を参照ください。
- 攻撃と戦死のページへのリンク